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原理講論 昭和57年9月1日 第16版    
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第三章 人類歴史の終末論

 我々は、人類歴史が如何にして始まり、また、これが何処へ向かって流れているかということを、これまで知らずに生きてきた。従って人類歴史の終末に関する問題を知らずにいるのである。多くのキリスト教信者たちは、ただ聖書に記録されていることを文字通りに受けとって、歴史の終末においては天と地がみな火に焼かれて消滅し(ぺテロU三・12)、日と月が光を失い、星が天から落ち(マタイ二四・29)、天使長のラッパの音と共に死人達がよみがえり、生き残った人達はみな雲に包まれて引き上げられ、空中においてイエスを迎えるだろう(テサロニケI四・16、17)と信じている。しかし、事実、聖書の文字通りになるのであろうか、それとも聖書の多くの重要な部分がそうであるように、このみ言も何かの比喩として言われているのであろうか。この問題を解明するということは、キリスト教信者達にとって、最も重要な問題の中の一つを解明することといわなければならない。ところで、この問題を解明するためには、まず、神が被造世界を創造なさった目的と堕落の意義、そして救いの摂理の目的等、これらの根本問題を解明しなければならないのである。

第一節 神の創造目的完成と人間の堕落

(一) 神の創造目的の完成

 既に創造原理において詳細に論述したように、神が人間を創造された目的は人間を見て喜ばれるためであった。従って、人間が存在する目的はあくまでも神を喜ばせるところにある。では、人間がどのようにすれば神を喜ばすことができ、その創造本性の存在価値を完全に現すことができるのであろうか。人間以外の被造物は自然そのままで神の喜びの対象となるように創造された。しかし人間は創造原理において明らかにされたように、自由意志と、それに基づく行動を通して、神に喜びを返すべき実体対象として創造されたので、人間は神の目的を知って自ら努力し、その意志の通り生活しなければ、神の喜びの対象となることはできないのである(マタイ七・21)。それ故に、人間はどこまでも神の心情を体恤してその目的を知り、その意志に従って生活できるように創造されたのであった。人間がこのような位置に立つようになることを個性完成というのである。たとえ部分的であったとはいえ、堕落前のアダムとエバが、そして預言者達が、神と一問一答できたということは、人間に、このように創造された素質があったからである。
 個性を完成した人間と神との関係は、体と心との関係をもって例えられる。体は心が住む一つの家であって、心の命令通りに行動する。このように、個性を完成した人間の心には、神が住むようになるので、結局、このような人間は神の宮となり、神のみ旨どおりに生活するようになるのである。それ故、コリントI三章16節に、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」と記されているのであり、また、ヨハネ福音書一四章20節には、「その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう」と言われたのである。このように、個性を完成して神の宮となることによって、聖霊が、その内に宿るようになり、神と一体となった人間は神性を帯びるようになるため、罪を犯そうとしても、犯すことができず、したがって堕落することができないのである。個性を完成した人間は、即ち、神の創造目的を成就した善の完成体であるが、この善の完成体が堕落したとすれば、善それ自体が破壊される可能性を内包しているという、不合理な結果になるのである。そればかりでなく、全能なる神の創造なさった人間が、完成した立場において堕落したとするならば、神の全能性までも、否定せざるを得なくなるのである。永遠なる主体としていまし給う、絶対者たる神の喜びの対象も、永遠性と絶対性を持たなければならないのであるから、個性を完成した人間は、絶対に堕落することができないのである。
 このように、個性完成して、罪を犯すことができなくなったアダムとエバが、神の祝福なさったみ言どおり(創一・28)、善の子女を繁殖して、罪のない家庭と社会とをつくったならば、これが即ち、一つの父母を中心とした大家族をもって建設されるところの天国であったはずである。天国はちょうど、個性を完成した一人の人間のような世界である。人間において、その頭脳の縦的な命令により、四肢五体が互いに横的な関係をもって活動するように、その社会も神からの縦的な命令によって、互いに横的な紐帯を結んで生活するようになっているのである。このような社会においては、ある一人の人間が苦痛を受けるとき、それを見つめて共に悲しむ神の心情を、社会全体がそのまま体恤するようになるから、隣人を害するような行為はできなくなるのである。
 更に、如何に罪のない人間達が生活する社会であるとしても、人間が原始人達と同じような、未開な生活をそのまま送らざるを得ないとすれば、これは、神が望み給い、また、人間が乞い願う天国だとは到底言うことができないのである。従って、神が万物を主管せよといわれたみ言の通りに(創一・28)、個性を完成した人間達は、科学を発達させて自然界を征服することによって、最高に安楽な社会環境をこの地上につくらなければならない。このような創造理想の実現されたところが、即ち地上天国なのである。このように人間が完成して地上天国の生活を終えたのちに、肉身を脱ぎすてて霊界に行けば、そこに天上天国がつくられるのである。故に、神の創造目的はどこまでも、まず、この地上において天国を建設なさるところにあると言わなければならない。

(二) 人間の堕落

 創造原理で詳述したように、人間は成長期間において、未完成の立場にあるとき堕落したのであった。人間に、なぜ成長期間が必要であったか、また、人間始祖が未完成期に堕落したと考えざる得ない根拠はどこにあるのか、という問題等も、既に創造原理において明らかにされている。人間は堕落することによって神の宮となることができず、サタンが住む家となり、サタンと一体化したために、神性を帯びることができず堕落性を帯びるようになった。このように、堕落性をもった人間達が悪の子女を繁殖して、悪の家庭と悪の社会、そして悪の世界をつくったのであるが、これが即ち、堕落人間達が今まで住んできた地上地獄だったのである。地獄の人間達は、神との縦的な関係が切れてしまったので、人間と人間との横的なつながりもつくることができず、従って、隣人の苦痛を自分のものとして体恤することができないために、ついには、隣人を害するような行為をほしいまま行なうようになってしまったのである。人間は地上地獄に住んでいるので、肉身を脱ぎ捨てた後にも、そのまま天上地獄に行くようになる。このようにして、人間は地上・天上ともに神主権の世界をつくることができず、サタン主権の世界をつくるようになたのである。サタンを「この世の君」(ヨハネ一二・31)、或いは「この世の神」(コリントII四・4)と呼ぶ理由は実にここにあるのである。

第二節 救いの摂理

(一) 救いの摂理は即ち復帰摂理である

 この罪悪の世界が、人間の悲しむ世界であることはいうまでもないが、神もまた悲しんでおられる世界であるということを、我々は知らなければならない(創六・6)。では、神はこの悲しみの世界をそのまま放任なさるのであろうか。
 喜びを得るために創造なさった善の世界が、人間の堕落によって、悲しみに満ちた罪悪世界となり、これが永続するほかはないというのであれば、神は、創造に失敗した無能な神となってしまうのである。それ故に、神は必ずこの罪悪の世界を、救わなければならないのである。
 それでは、神は、この世界を、どの程度にまで救わなければならないのであろうか。いうまでもなく、その救いは完全な救いでなければならないので、神はどこまでもこの罪悪の世界から、サタンの悪の勢力を完全に追放し(使徒二六・18)、それによって、まず、人間始祖の堕落以前の立場にまで復帰なさり、その上に善の創造目的を完成して、神が直接主管されるところまで(使徒三・21)、救いの摂理をなしていかなければならないのである。
 病気にかかった人間を救うということは、病気になる以前の状態に復帰するということを意味するし、水に溺れた人を救うということは、即ち、水に溺れる以前の立場にまで復帰するという意味なのである。罪に陥った者を救うということは、その者を罪のない創造本然の立場にまで復帰させるという意味でなくて何であろうか。それ故に、神の救いの摂理は、即ち復帰摂理となるのである(使徒一・6、マタイ一七・11)。
 堕落は、もちろん人間自身の過ちによってもたらされた結果である。しかし、どこまでも神が人間を創造されたのであり、それによって、人間の堕落という結果も起こり得たのであるから、神はこの結果に対して、創造主としての責任を負わなければならない。従って、神はこの誤った結果を、創造本然のものへと復帰するように摂理なさらなければならないのである。神は永存なさる主体であるから、その永遠なる喜びの対象として創造された人間の生命もまた、永遠性を持たなければならない。人間には、このように、永遠性をもって創造した創造原理的な基準があるので、たとえ堕落した人間であるとしても、これを全く消滅させてしまい、創造原理を無為に帰してしまうわけにはいかないのである。それ故に、神は堕落人間を救済し、その創造本然の立場にまで復帰なさらなければならないのである。
 元来、神は人間を創造されて、三大祝福を与えてくださることを約束なさったので(創一・28)、イザヤ書四六章11節に「わたしはこの事を語ったゆえ、必ずこさせる。わたしはこの事をはかったゆえ、必ず行う」と言われたように、サタンのために失ったこの祝福を復帰する摂理をなさることによって、その約束のみ旨を成し遂げてこられたのである。マタイ福音書五章48節にイエスが、「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と弟子達に言われたことも、とりもなおさず、創造本然の人間に復帰せよという意味であった。何故なら、創造本然の人間は、神と一体となることによって神性を帯びるようになるから、創造目的を中心として見るときには、神のように完全になるので、こう言われたのである。

(二) 復帰摂理の目的

 それでは、復帰摂理の目的は何であろうか。それは本来神の創造目的であった、善の対象である天国をつくることに他ならない。元来、神は人間を地上に創造なさり、彼等を中心として、まず地上天国を建設しようとされた。しかし、人間始祖の堕落によって、その目的を達成することができなかったので、復帰摂理の第一次的な目的も、また、地上天国を復帰することでなければならないのである。復帰摂理の目的を完成するために来られたイエスは「みこころが天に行なわれるおとり、地にも行なわれますように」(マタイ六・10)と祈れと言われたり、「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ四・17)と言われたが、これらのみ言は、みな、復帰摂理の目的が、地上天国を復帰するところにあったということを立証するのである。

(三) 人類歴史は即ち復帰摂理歴史である

 我々は既に、神の救いの摂理は即ち復帰摂理であるということを明らかにした。このことからして、人類歴史は、堕落した人間を救い、彼等をして創造本然の世界に復帰させるためにされた摂理歴史であるといわなければならない。それでは、果たして人類歴史が即ち復帰摂理の歴史であるかどうかということを、我々はここで、各方面から考察してみることにしよう。
 第一に、文化圏発展史の立場から考察してみることにする。古今東西を問わず、いかなる悪人であっても、悪を捨てて善に従おうとする本心だけは、誰でも共通に持っている。だから、何が善であり、如何にすればその善をなすことができるのかということは、知能に属することであり、時代と場所と人がそれぞれ異なることによって、それらは互いに衝突し、闘争の歴史をつくってきたのであるが、善を求めようとする人間の根本目的だけは、すべて同じであった。では何故、人間の本心は、如何なるものによっても取り押さえることのできない力を持ち、時間と空間を超越して、善を指向しているのであろうか。それは、善の主体であられる神が、神の善の目的を成就するための善の実体対象として、人間を創造なさったからで、たとえ堕落人間がサタンの業により、善の生活ができないようになってしまったとしても、善を追求するその本心だけは、そのまま残っているからである。従って、このような人間達によってつくられてきた歴史の進みゆくところは、結局善の世界でなければならない。
 人間の本心が如何に善を指向して努力するとしても、既に悪主権の上におかれているこの世界においては、その善の実相を見ることができなくなってしまっているので、人間は時空を超越した世界に、その善の主体を探し求めなければならなくなった。このような必然的な要求によって誕生したのが、即ち宗教なのである。このように、堕落によって神を失ってしまった人間は、宗教をつくり、たえず善を探し求めて、神に近づこうとしてきたので、たとえ宗教を奉じてきた個人、民族、あるいは国家は滅亡したとしても、宗教それ自体は今日に至るまで、絶えることなく継続してそのまま残ってきたのである。それでは、このような歴史的な事実を、国家興亡史を中心として、検討してみることにしよう。
 まず、中国の歴史を見ると、春秋戦国の各時代を経て、秦統一時代が到来し、そして前漢、新、後漢、三国、西晋、東晋、南北朝の各時代を経て、隋唐統一時代がきた。さらに、五代、北宋、南宋、元、明、清の時代を経て、今日の中華民国に至るまで、複雑多様な国家興亡と、政権の交替を重ねてきたのであるが、今日に至るまで、儒、仏、仙の極東宗教だけは、厳然として残っているのである。次にインドの歴史を繙いてみても、マウリア、アンドラ、クシャナ、グプタ、ヴァルダーナ、サーマン、カズニ、ムガール帝国を経て、今日のインドに至るまで、国家の変遷はきわまりなく繰り返してきたわけであるが、ヒンズー教だけは衰えずにそのまま残っているのである。また、中東地域の歴史を見れば、サラセン帝国、東西カリフ、セルジュク・トルコ、オスマン・トルコ等、国家の主権は幾度か変わってきたのであるが、彼等が信奉するイスラム教だけは、連綿としてその命脈が断ち切られることなく継承されてきたのである。つづいて、ヨーロッパ史の主流において、その実証を求めてみることにしよう。ヨーロッパの主導権はギリシャ、ローマ、フランク、スペイン、ポルトガルを経て、一時フランスとオランダを経由し、英国に移動し、それが、米国とソ連に分かれ今日に至っているのである。ところが、その中においても、キリスト教だけはそのまま興隆してきたのであり、唯物史観の上に建てられた専制政体下のソ連においてさえ、キリスト教は、今なお亡びずに残っている。このような見地から、すべての国家興亡の足跡を深く省みるとき、宗教を迫害した国は亡び、宗教を保護し育成した国は興隆し、また、その国の主権は、より以上に宗教を崇拝する国へと移されていったという歴史的な事実を、我々は数多く発見することができるのである。従って、宗教を迫害している共産主義世界の破滅の日が、必ず来るであろうということは、宗教史が実証的にこれを裏づけているのである。
 歴史上には、数多くの宗教が生滅した。その中でも影響力の大きい宗教は、必ず文化圏を形成してきたのであるが、文献に現れている文化圏でけでも、二十一ないし二十六を数えている。しかし、歴史の流れに従って、次第に劣等なものはより優秀なものに吸収されるか、あるいは融合されてきた。そして近世に至っては、前に列挙したように、数多くの国家興亡の波の中で、結局、極東文化圏、印度文化圏、回教文化圏、キリスト教文化圏、の四大文化圏だけが残されてきたのであり、これらはまた、キリスト教を中心とした一つの世界的な文化圏を形成していく趨勢を、見せているのである。故に、キリスト教が、善を指向してきたすべての宗教の目的を、同時に達成しなければならない最終的な使命を持っているという事実を、我々はこのような歴史的な帰趨を見ても、理解できるのである。このように、文化圏の発展史が数多くの宗教の興亡、或いは融合によって、結局、一つの宗教を中心とする世界的な文化圏を形成してゆくという事実は、人類歴史が、一つの統一世界へと復帰せれつつあることを証拠立てるものである。
 第二に、宗教と科学の動向から見ても、我々は、人類歴史が復帰摂理の歴史であるということを知ることができる。堕落人間の両面の無知を克服するために生じた宗教と科学が、今日に至っては、統一された一つの課題として、解決されなけっればならないときが来たということは、既に総序において論じた。このように有史以来、互いに関連することなく独自的に発達してきた宗教と科学が、今日に至って、各々その行くべきところに到達し、一つのところで、互いに相合わなければならないようになったという事実は、人類歴史が今まで、創造本然の世界を復帰する摂理路程を歩いてきたということを、我々に物語っているのである。もし人間が堕落しなかったとすれば、人間の知能は、霊的な面において最高度に向上したであろうから、肉的な面においても最高度に発達し、科学はそのとき、ごく短期間の内に驚くほど向上したはずであった。従って、今日のような科学社会は、既に人間始祖当時において成就されるはずであったのである。しかし、人間は堕落によって無知に陥り、そのような社会をつくることができなかったから、悠久なる歴史の期間を経て、科学をもってその無知を打開しながら、創造本然の理想的科学社会を復帰してきたのである。
 しかし、今日の科学社会は極めて高度に発達し、外的には理想社会へと転換することができる、その前段階にまで復帰されてきている。
 第三に、闘争歴史の帰趨から見ても、人類歴史は復帰摂理歴史であるという事実を知ることができる。財産を奪い、土地を略奪し、人間を奪い合う闘争は、人間社会の発達と共に展開され、今日に至るまで悠久なる歴史の期間を通じて、一日も絶えることなく続いてきたのである。即ち、この闘いは家庭、氏族、民族、国家、世界を中心とする闘いとして、その範囲を広め、今日に至っては、民主と共産の二つの世界が最後の闘争を挑むというところまで至っている。今や、人類歴史の終末を告げるこの最後の段階において、天倫はついに、財物や土地、或い人間を奪いとれば幸福を増進させることができるだろうと考えてきた歴史的な段階を越えて、民主主義という名を掲げて、この世に到来してきたのである。第一次世界大戦が終わった後は、敗戦国家が植民地を奪われたが、第二次世界大戦においては、戦勝国家が次々に植民地を解放する現象が現れてきた。一方、今日の強大国家は、それらの一つの都市よりも小さい弱小国家を国連に加入させ、それらの国を経済的に援助するだけでなく、自分達と同等な権利と義務とを与え、すべて兄弟国家として育成しつつあるのである。それではこの最後の闘いというのはどのようなものであろうか。それは理念の闘いである。しかし、今日の世界を脅かしている唯物史観を完全にくつがえすことができる真理が現れない限り、民主主義陣営と共産主義陣営の二つの世界の闘いは、永遠に絶えることがないであろう。それ故に、宗教と科学とを、統一された一つの課題として解決することのできる真理が現れるとき、はじめて、宗教を否定して科学偏重の発達を遂げてきた共産主義思想はくつがえされ、二つの世界は一つの理念の下に、完全に統一されるのである。このように、闘争歴史の帰趨から見ても、人類歴史は、創造本然の世界を復帰する摂理歴史であるということを否定することはできないのである。
 第四に、我々は聖書を中心として、より詳しく、この問題について調べてみることにしよう。人類歴史の目的は、生命の木(創二・9)を中心とするエデンの園を復帰するところにある(前編第二章第一節(一))。ところで、エデンの園とは、アダムとエバが創造された、あの局限地域をいうのではなく、地球全体を意味するのである。もしエデンの園を、人間始祖の創造された、ある限定された地域だけをさしていうのだとすれば、地に満ちるほど生めよ殖えよといわれた神の祝福のみ言(創一・28)によって、繁殖するであろう数多くの人類が、一体どうしたらその狭い所にみな住むことができるであろうか。
 人間始祖が堕落したために、神が、「生命の木」を中心として建てようとしたエデンの園は、サタンの手に渡されてしまったのである(創三・24)。故に、アルパで始められた人類罪悪歴史が、オメガで終わるときの堕落人間の願望は、罪悪をもって色染められた着物を、清く洗い、復帰されたエデンの園に帰ってゆき、失った「生命の木」を、再び探し求めていくところにあるのだと黙示録二二章13節以下には記録されている。では、聖書のいうこれらの内容は、何を意味するのであろうか。
 既に、堕落論において明らかにされているが、「生命の木」とは完成したアダム、即ち、人類の真の父を意味しているのである。父母が堕落して、その子孫もまた原罪をもつ子女達となったので、この罪悪の子女達が、創造本然の人間にまで復帰するためには、イエスのみ言通り、すべての人間が新生しなければならないのである(新生論参照)。従って、歴史は、人類を再び産んでくださる真の父であられるイエスを探し求めてきたのであるから、歴史の終末期において、信徒達が願望し、探し求めていくものとして記録されているヨハネ黙示録の「生命の木」とは、とりもなおさずイエスのことをいうのである。我々は、このような聖書の記録を見ても、歴史の目的は、「生命の木」として来られるイエスを中心とした、創造本然のエデンの園を復帰するところにあるということを理解することができる。黙示録二一章1〜7節にも、歴史の終末においては、新しい天と新しい地とが現れるであろうと、記録されているが、これはまさしくサタンの主管下にあった、先の天と地が、神を中心とするイエスの主管下の、新しい天と新しい地に復帰されるということを意味するのである。ロマ書八章19〜22節には、サタン主管下にうめき嘆いている万物も、終末に至って火に焼かれてなくなるのではなく、創造本然の立場に復帰されることにより、新たにされるために(黙二一・5)、自己を主管してくれる、創造本然の神の子達が新たに復帰されて出現することを待ち望んでいると記録されている。我々は、このように各方面から考察してみるとき、人類歴史は、創造本然の世界に復帰する摂理歴史であるということを、明らかに知ることができるのである。

第三節 終末

(一) 終末の意義

 神が、人間始祖に与えられた三大祝福は、人間始祖の犯罪によって、神を中心としては成就されず、サタンを中心として非原理的的に成就されたのだということを、我々は既に述べた。ところが、悪によって始められた人類歴史は、事実上、神の復帰摂理歴史であるが故に、サタン主権の罪悪世界はメシヤの降臨を転換点として、神を中心として三大祝福が成就される善主権の世界に変えられるようになるのである。
 このように、サタン主権の罪悪世界が、神主権の創造理想世界に転換される時代を終末(末世)という。従って終末とは、地上地獄が地上地獄に変わるときをいうのである。それ故にこのときは、今までキリスト教信徒達が信じてきたように、天変地異が起こる恐怖の時代ではなく、創世以後、悠久なる歴史路程を通して、人類が唯一の希望として乞い願ってきた喜びの日が実現されるときなのである。詳しくは、後編第一章に譲ることにするが、神は人間の堕落以来、罪悪世界を清算して創造本然の善の世界を復帰するための摂理を、幾度もしてこられたのであった。しかしその度ごとに人間はその責任分担を完遂し得ず、その目的が成就されなかったので、結果的には、終末が幾度もあったかのように記されている事実を、我々は聖書を通して知ることができるのである。

(1) ノアのときも終末であった

 創世記六章13節の記録を見れば、ノアのときも終末であったから、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満したから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう」と言われたのである。それではどうしてノアのときが終末であったのか。神は、人間始祖が堕落したために始まったサタンを中心とする堕落世界を、一六〇〇年の罪悪史を一期として、洪水審判をもって滅ぼし、神のみを信奉するノアの家庭を立てることにより、その信仰の基台の上に、神主権の理想世界を、復帰なさろうとしたのであった。従って、ノアのときは終末であったのである(後編第三章第二節参照)。しかし、ノアの次男ハムの堕落行為によって、彼が人間の責任分担を完遂できなかったために、この目的は達せられなかったのである(創九・22)。

(2) イエスのときも終末であった

 復帰摂理の目的を完遂なさろうとする、そのみ旨に対する神の予定は、絶対的であるが故に変えることができないから(前編第六章)、ノアを中心とする復帰の摂理は成就されなかったのであるが、神は再び他の預言者を遣わして、信仰の基台を築いて、その基台の上にイエスを送ることにより、サタンを中心とする罪悪の世界を滅ぼして、神を中心とする理想世界を復帰なさろうとしたのであった。従って、イエスのときも終末であったのである。それ故にイエスは自ら審判主として来られたと言われたのであり(ヨハネ五・22)、そのときもまた、「万軍の主は言われる。見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる者と、悪を行なう者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽くして、根も枝も残さない」(マラキ四・1)と預言されていたのであった。イエスはこのように、創造理想世界を復帰なさろうとして来られたのであるが、ユダヤ人達が彼を信ぜず、人間の責任分担を完遂し得なかったので、この目的も達せられず、再臨のときまで再び延長されたのである。

(3) イエスの再臨のときも終末である

 ユダヤ民族の不信に出会ったイエスは、十字架につけられて亡くなることにより、霊的救いのみを成就されるようになったのである。従って、イエスは、再臨してはじめて、霊肉合わせて、救いの摂理の目的を完遂され(前編第四章第一節(四))、地上天国を復帰するようになるので、イエスの再臨のときもまた、終末である。故にイエスは、「ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起こるであろう」(ルカ一七・26)と言われたのであり、また御自身が再臨なさるときも、終末となり、天変地異が起こるであろうと預言されたのであった(マタイ二四・29)。

(二) 終末の徴候に関する聖句

 既に上述したように、多くのキリスト教信徒達は、聖書に記録されている文字通りに、終末には天変地異が起こり、人間社会においても、現代人としては想像することもできない異変が起こるであろうと信じている。しかし、人類歴史が、神の創造本然の世界を復帰していく摂理歴史であるということを理解するならば、聖書に記録されている終末の徴候が、そのまま実際に、文字通りに現れるのではないということを、知ることができるのである。それでは、終末に関するすべての記録は、各々何を象徴したのであろうかということに関して、調べてみることにしよう。

(1) 天と地を滅ぼして (ぺテロII三・12、創六・13)新しい天と新しい地をつくられる (黙二一・1、ぺテロII三・12、イザヤ六六・22)

 創世記六章13節を見れば、ノアのときも終末であったので、地を滅ぼすと言われたのであるが、実際においては滅ぼされなかった。伝道書一章4節に「世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変わらない」と言われたみ言、或いは、詩編七八篇69節に、「神はその聖所を高い天のように建て、とこしえに基を定められた地のように建てられた」と言われたいみ言を見ても、地は永遠なるものであるということを知ることができる。主体なる神が永遠であられるから、その対象もまた、永遠なるものでなければならない。従って、神の対象として創造された地も、永遠なるものでなくてはならない。全知全能であられる神が、サタンによって破滅し、なくなるような世界を創造されて、喜ばれるはずはないのである。それでは、そのみ言は何を比喩されたものであろうか。一つの国を滅ぼすということは、その主権を滅ぼすということを意味するのであり、また、新しい国を建設するということは(黙二一・1)、新しい主権の国を建てることを意味するのである。従って、天と地とを滅ぼすということは、それを主管しているサタンの主権を滅ぼすことを意味するのであり、また、新しい天と新しい地を建てるということは、イエスを中心とする神主権下の新しい天地を復帰するということを意味するのである。

(2) 天と地を火をもって審判される(ぺテロII三・12)

 ぺテロII三章12節を見ると、終末には「天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう」と記録されている。また、マラキ書四章1節以下を見れば、イエスのときにも、御自身が審判主として来られ(ヨハネ五・22、同九・39)、火をもって審判なさると預言されている。更に、ルカ福音書一二章49節には、イエスは火を地上に投じるために来られたとある。しかし実際にはイエスが火をもって審判なさったという何の痕跡も、我々は発見することができないのである。とすれば、このみ言は何かを比喩されたのであると見なければならない。ヤコブ書三章6節に「舌は火である」と言われたみ言からすれば、火の審判であり、舌の審判であり、舌の審判は即ち、み言の審判を意味するのであるから、火の審判とはとりもなおさず、み言の審判であるということを知ることができるのである。
 では我々は、ここにおいて、み言をもって審判されるという聖句の例を取上げてみることにしよう。
 ぺテロII三章7節に、天と地をみ言をもって焼くという記録がある。また、ヨハネ福音書一二章48節には、イエスを捨てて、そのみ言を受け入れない人を裁くものがあるが、イエスが語られたそのみ言が、終わりの日にその人を裁くであろうと、記録されており、更にテサロニケII二章8節には、そのときになると、不法の者が現れるが、この者を主イエスは、口の息をもって殺すであろうと記録しているのである。そしてまた、イザヤ書一一章4節においては、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺すと言われており、ヨハネ福音書五章24節を見れば、イエスはわたしの言葉を聞いて、神を信ずる者は裁かれることがなく、死から命に移ると言われている。このように火の審判は、即ち、み言の審判を意味するのである。
 それでは、「み言」をもって審判される理由は、一体どこにあるのであろうか。ヨハネ福音書一章3節に、人間はみ言によって創造されたと記録されている。従って神の創造理想は人間始祖がみ言の実体として、み言の目的を完遂しなければならなかったのであるが、彼等は神のみ言を守らないで堕落し、その目的を達することができなかったのである。それ故に、神は再びみ言によって、堕落人間を再創造なさることにより、み言の目的を達成しようとされたのであるが、これが即ち、真理(聖書)による復帰摂理なのである。ヨハネ福音書一章14節には、「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」と記録されている。このようにイエスは、また、み言の完成者として再臨なさり、自ら、み言審判の基準となられることによって、すべての人類が、どの程度にみ言の目的を達成しているかを審判なさるのである。このように、復帰摂理の目的が、み言の目的を達成するところにあるので、その目的のための審判も、み言をその基準として立てて行なわれなければならないのである。ルカ福音書一二章49節に、「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか」と書かれているのであるが、これは、イエスが「み言」の実体として来られ(ヨハネ一・14)生命のみ言をすでに宣布なさったにもかかわらず、ユダヤ人達がこれを受け入れないのをごらんになって、嘆きのあまり言われたみ言であった。

(3) 墓から死体がよみがえる(マタイ二七・52、テサロニケI四・16)

 マタイ福音書二七章52節以下を見ると、イエスが亡くなられるとき、「墓が開け、眠っている多くの聖徒達の死体が生き返った。そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた」と記録されているのであるが、これは、腐敗してしまった彼等の肉身が、再び生き返ったということを、意味するものではないのである(前編第五章第二節(三))。もし、霊界にとどまっていた旧約時代の信徒達が、聖書の文字通りに墓からよみがえり、都にいた多くの人々に見えたとすれば、彼等にはイエスがメシヤであるということがわかったわけであるから、必ずユダヤ人達に、イエスがメシヤであるということを証明したはずである。もしそう行動したならば、イエスはそのとき既に十字火で亡くなられていたとしても、彼等の証言を聞いて、イエスを信じない人は、一人もいなかったであろう。また、そのように旧約時代の聖人達が、再び肉身をつけて墓から起き上がったとすれば、そののちの彼等の行跡に関する記事が、必ず聖書に残っていなければならないはずである。しかし、聖書には彼等に関する何らの記事も、この他の箇所には記載されていない。では、墓から蘇ったものは、いったい何であったのであろうか。それはあたかもモーセとエリヤの霊人体が、変貌山上においてイエスの前に現れたように(マタイ一七・3)、旧約時代の霊人達が、再臨復活のために地上に再臨したのを霊的に見て(前編第五節第二章(三))記録した言葉だったのである。では墓は何を意味するのであろうか。イエスによって開かれた楽園から見れば、旧約時代の聖徒達がとどまっていた霊形体級の霊人の世界は、より暗い世界であるために、そこを称して墓と言ったのである。旧約時代の霊人達は、すべてこの霊界にいたのであるが、そのとき再臨復活して、地上信徒達の前に現れたのであった。

(4) 地上人間達が引きあげられ空中で主に会う(テサロニケI四・17)

 ここに記録されている空中とは、空間的な天を意味するのではない。大抵聖書において、地は堕落した悪主権の世界を意味し、天は罪のない善主権の世界を意味する。これは、あまねくいましたもう神である限り、地のいずこにも遍在すべきであるにもかかわらず、「天にいますわれらの父よ」(マタイ六・9)と言われ、また、イエスは地において誕生されたにもかかわらず、「天から下ってきた者、すなわち人の子・・・」(ヨハネ三・13)と言われたことを見ても、そのことがわかるのである。それ故に、空中で主に会うということは、イエスが再臨されてサタンの主権を倒し、地上天国を復帰されることによって建てられる、その善主権の世界において、主と会うようになるということを意味するのである。

(5) 日と月が光を失い星が空から落ちる(マタイ二四・29)

 創世記三七章9節以下を見れば、ヤコブの十二人の子供達のうち、十一番目の息子であるヨセフが夢を見たとあり、その内容について「ヨセフはまた一つ夢を見て、それを兄弟達に語って言った、『わたしはまた夢を見ました。日と月と十一の星がわたしを拝みました』。彼はこれを父と兄弟達に語ったので、父は彼をとがめて言った、『あなたが見たその夢はどういうことか。ほんとうにわたしとあなたの母と、兄弟達とがいって地に伏し、あなたを拝むのか』」と記録されている。ところがヨセフが成長して、エジプトの総理大臣になったとき、まさしくこの夢の通り、その父母と兄弟達が彼を拝んだのである。
 この聖書のみ言を見れば、日と月は父母を象徴したのであり、星は子女達を象徴したものだということを知ることができる。キリスト論で述べるように、イエスと聖霊はアダムとエバの代わりに、人類を新生させてくださる真の父母として来られたのである。それ故に、日と月はイエスと聖霊を象徴しているのであり、星は子女に該当するキリスト教徒達を象徴しているのである。
 聖書の中で、イエスを真の光に例えたのは(ヨハネ一・9)、彼の肉体がみ言によってつくられたお方として来られ(ヨハネ一・14)、真理の光を発したからであった。故に、ここで言っている日の光とは、イエスの言われたみ言の光を言うのであり、月の光とは、真理のみ霊として来られた聖霊(ヨハネ一六・13)の光をいうのである。従って、日と月が光を失うというのは、イエスと聖霊による新約のみ言が、光を失うようになるということを意味するのである。では何故、新約のみ言が、光を失うようになるのであろうか。それはちょうど、イエスと聖霊が来られて、旧約のみ言を成就するための新約のみ言を下さることにより、旧約のみ言が光を失うようようになったと同様に、イエスが再臨されて、新約のみ言を成就し、新しい天と新しい地とをたてられるので(黙二一・1)そのときの新しいみ言によって(本章第五節(一)参照)初臨のときにくださった新約のみ言はその光を失うようになるのである。ここにおいて、み言がその光を失うというのは、新しい時代が来ることによって、そのみ言の使命期間が過ぎさるということを意味する。
 また、星が落ちるというのは、終末において、多くのキリスト教徒達がつまずきおちるようになる、ということを意味するのである。メシヤの降臨を熱望してきたユダヤ教の指導者達が、メシヤとして来られたイエスを知らず、彼に反対して落ちてしまったように、イエスの再臨を熱望しているキリスト教徒達も、十分注意しないと、その日にはつまずき、落ちてしまうであろうということを預言されたのである(後編第六節第二節参照)。ルカ福音書一八章8節に、「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」と言われたみ言、或いは、マタイ福音書七章23節に、イエスが再臨されるとき、信仰の篤い信徒達に向かって「不法を働く者ども」と責められ、更に、「行ってしまえ」と、排斥されるようなことを言われたのも、とりもなおさず、終末において、信徒達が、つまずき落ちるということを予知され、そのように警告されたのである。

第四節 終末と現世

 イエスが、将来訪れるであろうぺテロの死に関して話しておられるとき、そのみ言を聞いていたぺテロが、ヨハネはどうなるのでしょうか、と質問した。これに対してイエスは、「たといわたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。」(ヨハネ二一・22)と答えられた。それ故に、このみ言を聞いていた使徒達は、みなヨハネが生きているうちに、イエスが再臨されるだろうと信じていたのである。そればかりでなく、マタイ福音書一〇章23節を見れば、イエスはその弟子達に、「あなたがたがイスラエルの町々を回り終わらないうちに、人の子は来るであろう」と言われており、また、マタイ福音書一六章28節には、「人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」と、言われたのである。
 このようなみ言によって、イエスの弟子達もそうであったが、その後、今日に至るまでの多くの信徒達は、各々が、自分の当代に、イエスが来られるということを信じていたので、彼等は、常に終末であるという切迫感からのがれることができなかったのである。これは、終末に対する根本的な意義を、知らなかったからであった。我々はいまここにおいて、神が復帰摂理の目的として立て、それを成就しようとしてこられた三大祝福が復帰されていく現象を見て、現代が即ち終末であるということを、立証することができるのである。それ故にイエスは、「いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる」(マタイ二四・32)と、言われたのである。

(一) 第一祝福復帰の現象

 既に創造原理において論じたように、神がアダムとエバに約束された第一祝福は、彼等が個性を完成することを意味するのである。堕落人間をして、個性完成した創造本然の人間へと復帰してこられた神の摂理が、その最終段階に至っているということは、次のような各種の現象を見ても知ることができる。
 第一に、堕落人間の心霊が復帰されていくのを見て、それを知ることができる。人間が完成すれば、完全に神と心情的に一体化し、互いに相通ずるように創造されたということは、既に述べた通りである。それ故に、アダムとエバも、不完全な状態ではあったが、神と一問一答した段階から堕落し、その子孫達は、神を知らないところにまで落ちてしまったのである。このように、堕落してしまった人間が、復帰摂理の時代的な恩恵を受けるようになるに従って、漸次その心霊が復帰されるので、終末に至っては、使徒行伝二章17節に「終りのと時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者達は幻を見、老人達は夢を見るであろう」と言われたみ言のように、多くの信徒達が、神と霊通するようになるのである。そこで、現世に至り、霊通する信徒達が雨後のたけのこのように現れるのを見れば、現世は終末であるが故に、人間が個性を完成し神の第一祝福を復帰することのできる、そのような時代に入っているということを知ることができる。
 第二に、堕落人間が、本心の自由を復帰していくという歴史的な帰趨が、これまた、それを示しているのである。人間は堕落によってサタンの主管下におかれ、本心の自由が拘束されるようになったので、神の前に出ていくことのできる自由を失ってしまった。ところが現世に至っては、肉身の命を捨ててまでも、本心の自由を求めようとする心情が高められてくるが、これは、終末になって個性を完成することにより、堕落人間が、サタンに奪われた神の第一祝福を復帰し、神の前に出ていくことのできる時代に入っているからなのである。
 第三に、堕落人間の、創造本然の価値性が復帰されていく現象を見て、そうであるということを、より確実に知ることができる。つまり人間の創造本然の価値は、横的に見るときすべて同等であるが故に、その価値は、たいして貴重なもののようには感じられないのであるが、天を中心として縦的に見るとき、各個性は、最も尊い天宙的な価値を、それぞれもっているのである(前編第七章第一節)。
 実に人間は、堕落することによって、このような価値をみな失ってしまったのである。ところが現代に至り、民主主義思想が高潮して、人々は奴隷解放、黒人解放、弱小民族解放等を主張しながら、人権擁護と男女平等、そして万民平等を叫ぶことによって創造本然の個性の価値を、最高度に追求するようになったのであるが、これはとりもなおさず終末となり、堕落人間が失った神の第一祝福を復帰できる時代に入っていることを実証するものである。
 第四に、堕落人間の本性の愛が復帰されていくという事実が、個性を完成していく終末のときの到来を更に証明してくれる。神の創造理想を完成した世界は、完成した一人の人間の姿の世界であって、その世界の人間は、みな神と縦的に一体となっているが故に、人間相互間においても横的に一体とならなければならないのである。従って、この世界はもっぱら、神の愛をもって縦横に結ばれ、一つの体のようにならざるを得ないのである。しかし、人間は堕落によって神との縦的な愛の関係を断たれてしまったので、人間同士の横的な愛も切断され、人類歴史は闘争のもつれによって流れてきた。しかし、現代に至っては博愛主義思想が高潮してくるに従い、人間が漸次、その本性愛を探し求めてきているのを見ても、現代は神の第一祝福を復帰することにより、神の愛を中心として個性を完成することができる終末に入っている、という事実を知ることができるのである。

(二) 第二祝福復帰の現象

 神の第二祝福は、アダムとエバが真の父母として完成し、善の子女を繁殖することにより、善主権の家庭と、社会と、世界を成就するようになるということを意味する。しかし、アダムとエバは堕落して悪の父母となったので、全人類は悪の子女となり、悪主権に拘束された世界をつくってしまったのである。しかし神は一方に宗教を立てて摂理することにより、内的なサタン分立による心霊復帰の摂理をされ、また、他方においては、闘争と戦争による外的なサタン分立をすることにより、内外両面における主権復帰の摂理をしてこられたのである。このように人類歴史は、内外両面のサタン分立による復帰摂理を通じて、将来の真の親であられるイエスに仕えることのできる子女を探し求めて、神の第二祝福を復帰してきたから、それは宗教を中心とする文化圏の発展史と国家興亡史とに現れた内外両面における神の主権復帰の現象を見ることによって、現世が即ち終末であるということを知ることができるのである。
 我々はまず、文化圏発展史がどういうふうに流れてきて、現代を終末へと導いているのかを明らかにしよう。文化圏発展史に関する問題は、既に幾度か論じてきたが、神は堕落人間に聖賢達を遣わされ、善を指向する人間の本心に従って、宗教を立たしめ、その宗教を中心とする文化圏を起してこられたのである。それ故に、歴史上には数多くの文化圏が形成されたのであるが、時代が流れるに従って、これらは互いに融合、或いは吸収され、現代に至っては、キリスト教を中心とする一つの世界的な文化圏をつくっていく趨勢を見せているのである。このような歴史的な趨勢は、キリスト教の中心であるイエスを中心として、すべての民族が、同じ兄弟の立場に立つようになるということによって、神の第二祝福が復帰されつつあるという事実を示しているのである。
 キリスト教が他の宗教と異なるところは、全人類の真の父母を立てて、その父母によってすべての人間が新生し、善の子女となることによって、神の創造本然の大家族の世界を復帰するところに、その目的があるという点である。これはとりもなおさず、キリスト教が、復帰摂理の目的を完成する中心的な宗教であるということを意味するのである。このように、現世に至っては、世界がキリスト教を中心として一つの文化圏を形成し、人類の真の父母であられるイエスと聖霊(前編第七章参照)を中心として、すべての人間が善の子女の立場に立つことにより、神の第二祝福復帰の現象を見せている。このような事実を見ても我々は現代が終末であるということを否定することができないのである。
 次に我々は、国家興亡史がどのように主権復帰の目的に向かって流れてきて、現代を終末へと導いているかについて調べてみることにしよう。闘争や戦争を、単純に或る利害関係や理念の衝突から起こる結果であると見るのは、神の根本摂理を知らないところからくる軽薄な考え方である。人類歴史は人間始祖の堕落により、サタンを中心とする悪主権をもって出発し、罪悪の世界を形成してきたのである。しかし、神の創造目的が残っている限り、その歴史の目的も、あくまでもサタンを分立して神の善主権を復帰するところになければならない。もし、悪主権の世界に戦争や分裂がないとすれば、その世界はそのまま永続するはずであり、従って、善主権は永遠に復帰できないのである。それ故に、神は堕落人間に聖賢達を遣わされ、善を立て、宗教を起すことによって、より善なる主権をして、より悪なる主権を滅ぼされながら、漸次、天の側の主権を復帰なさる摂理をしてこられたのである。従って、復帰摂理の目的を成就するためには、闘争と戦争という過程を経なければならない。この問題に関しては、後編においてより詳しく論ずる予定であるが、人類歴史は蕩減復帰の摂理路程を歩いていくので、ある局限された時間圏内においてだけこれを見れば、悪が勝利を勝ち得たときもないことはなかった。しかしそれは結局敗北し、より善なる版図内に吸収されていったのである。それ故に、戦争による国家の興亡盛衰は、善主権を復帰するための摂理路程から起こる、不可避的な結果であったと言わなければならない。故に神は、イスラエル民族を立てカナンの七族を滅ぼされたのであり、また、サウルは神の命令に従わず、アマレク族とそれに属する家畜を全滅しなかったために、厳罰を受けたのである(サムエル上一五・18〜23)。神はこのように、直接民族を滅ぼすようイスラエルに命令されたのみならず、その選民であった北朝イスラエルが、悪の方向に傾いてしまったときには、惜しみなく彼等をアッシリヤに手渡し、滅亡させてしまわれたのである(列王下一七・23)。神がこのようにされたのは、ひたすら悪主権を滅ぼして、善主権を復帰なさろうとしたからであったということを、我々は知らなければならない。故に、同じ天の側における個人的な闘争は、善主権自体を破壊する結果となるが故に悪となるのであるが、善主権が悪主権を滅ぼすことは、神の復帰摂理歴史の目的を達成するためであるという理由から、これは善となるのである。こうして、サタン分立のための闘争歴史は、次第に土地と財物とを奪って、天の側の主権へと復帰するに至ったのであり、人間においても個人より家庭、社会、そして国家ヘと、天の側の基台を広め、今日に至っては、これを世界的に復帰するようになったのである。このように、サタン分立のための摂理が氏族主義時代から出発し、封建主義時代と君主主義時代を経て、民主主義時代に入って今日に至っているが、今やこの人間世界は、天の側の主権を立てようとする民主主義世界と、サタンの側の主権を立てようとする共産主義世界との、二つの世界に分立されている。
 このように、サタンを中心とする悪主権によって出発した人類歴史は、一方において、宗教と哲学と倫理によって、善を指向する人間の創造本性が喚起されるに従い、漸次、悪主権から善主権のための勢力が分立され、ついに、世界的に対立する二つの主権を形成するに至ったのである。しかるに、目的が相反するこの二つの主権は、決して共存することができない。従って、人類歴史の終末に至れば、これらは必ず一点において交叉し、理念を中心として内的に衝突し、それが原因となって軍事力を中心とする外的な戦争が行なわれ、結局サタン主権は永遠に滅び、天の側の主権のみが永遠なる神の単一主権として復帰されるのである。しかるに現代は、善主権を指向する天の側の世界と、サタンを中心とする悪主権の世界が対立して、互いに交叉しているときであるから、ここから考えてもまた、終末であるといわなければならない。
 このように、悪主権から善主権を分立してきた人類歴史は、ちょうど、荒れ狂う濁流が時間を経るに従って、泥は水底に沈み水は上の方に澄んで、ついには泥と水とが完全に分離されるように、時代が進むにつれて、悪主権は次第に衰亡の道をたどって降下線を描き、善主権は興隆の道をたどって上昇線を描くようになるので、歴史の終末に至っては、この二つの主権は或る期間交叉したのち、結局、前者は永遠に滅亡してしまい、後者は神の主権として永遠に残るようになるのである。
 このように、善悪二つの主権の歴史路程が交叉するときを終末という。そして更にこのときは、アダムとエバが堕落した長成期完成級の時期を、蕩減復帰するときであるから、あたかもエデンの園の人間始祖が、どこに中心をおくべきか知らずに、混沌の中に陥っていったように、如何なる人間も思想の混乱をおこして、彷徨するようになるのである。
 復帰摂理路程において、このように終末を迎えて、善悪二つの主権が交叉していたときは、幾度かあった。既に述べたようにノアのときやイエスのときも終末であった。故に、この二つの主権が互いに交叉していたのである。しかしそのたびごとに、人間はその責任分担を完遂できず、悪主権を全滅することができなかったので、神は主権分立の摂理を再びなし給わなければならなかった。従ってイエスの再臨期に、今一度、二つの主権の交叉があるのである。復帰摂理路程は、このように、周期的に相似的な螺旋状を反復しながら、円形過程を通りつつ創造目的を指向してきたから、歴史上においては必然的に、同時性の時代が形成されてきたわけである(後編第三章第一節参照)。

(三) 第三祝福復帰の現象

 神の第三祝福はアダムとエバが完成して、被造世界に対する主管性を持つようになることを意味する。そして、被造世界に対する人間の主管性には、内外両面の主管性がある。人間は堕落によってこの両面の主管性を失ったのであるが、現代に至っては、これが復帰されつつあるのを見て、現代が終末であるということを知ることができるのである。
 内的主管性とは、心情的主管性を意味する。即ち人間が個性を完成すれば、神と心情的に一体化し、神の心情をそのまま体恤することができるのである。このように、人間が完成することにより、被造世界に対する神の心情と同一の心情をもって、被造世界に対して愛を与え美を受けるようになるとき、人間は被造世界に対する心情的な主管者となるのである。けれども人間は、堕落して神の心情を体恤できなくなってしまったので、神の心情をもって、被造世界に対することもできなくなったのである。しかし、宗教、哲学、倫理などによる神の復帰摂理によって、神に対する堕落人間の心霊は、漸次開発されて明るくなり、現代に至っては、被造世界に対する心情的な主管者の資格を復帰しつつあるのである。
 次に、外的主管性とは、科学による主管性を意味する。もし人間が完成して、被造世界に対する神の創造の心情と同一の心情をもって、被造世界を内的に主管できたならば、人間の霊感は高度に発達することができたはずであるから、科学の発達も、極めて短時日に最高度のものにまで達し得たはずであったのである。このようになってはじめて、人間は被造物に対する外的な主管性をなし得るのである。従って、人間は早くから天体をはじめとして、自然界全体を完全に主管できるばかりでなく、科学の発達に基づく経済発展によって、極めて安楽な生活環境を持つくることができたはずである。しかし、人間は堕落によって心霊が暗くなり、被造物に対する内的な主管性を失って、動物のように、霊感の鈍い未開人に零落してしまったので、被造物に対する外的な主管性までも失うようになったのである。しかし、人間は神の復帰摂理によって、心霊が明るくなるにしたがい、被造物に対する内的な主管性が復帰されてきたので、それにともない、被造物に対する外的な主管性も、漸次復帰されてきて、現代ともなると科学の発達も最高度に達し得たのである。そして、科学の発達に伴う経済発展によって、現代人は極度に安楽な生活環境をつくるようになった。このように、堕落人間が被造世界に対する主管性を復帰するに従い、神の第三祝福が復帰されていく現象を見るとき、我々は、現代が終末であることを否定することができないのである。
 今まで幾度か言及したように、文化圏の発展においても、一つの宗教を中心として一つの世界的な文化圏を形成しているのであり、国家形態においても、一つの世界的な主権機構を指向して、国際連盟から国際連合へと、そして今日に至っては、世界政府を模索するというところにまで漕ぎつけてきているのである。そればかりでなく、経済的発展を見ても、世界は一つの共同市場をつくっていくという趨勢におかれており、また、極度に発達した交通機関と通信機関は、時間と空間を短縮させて、人間が地球を一つの庭園のように歩き、また、往き来できるようにさせているのであり、東西の異民族同士が、一つの家庭のように接触することができるようになってきたのである。人類は四海同胞の兄弟愛を叫んでいる。しかし、家庭は父母がいてはじめて成り立つのであり、また、そこにおいてのみ、真の兄弟愛は生まれてくるのである。従って、今や人類の親であるイエスだけが再臨すれば、全人類は一つの庭園において、一つの大家族をつくり、一家団欒して生活し得るようになっているのである。このような事実を見ても、現代は終末であるに相違ないのである。
 こうして流れてきた歴史が人類に与えるべき一つの賜物がある。それは、何らの目的なくして一つの庭園に集まり、ざわめいている旅人達を、同じ父母を中心とする一つの家族として結びあわせることができる天宙的な理念であるといわなければならない。

第五節 終末と新しいみ言と我々の姿勢

(一) 終末と新しい真理

 堕落人間は宗教により霊と真理をもって(ヨハネ四・23)その心霊と知能とをよみがえらせ、その内的な無知を打開してゆくのである。更に、真理においても、内的な無知を打開する宗教による内的真理と、外的な無知を打開する科学による外的真理との二つの面がある。従って知能においても、内的真理によって開発される内的知能と、外的真理によって開発される外的知能との二つの面がある。それ故に、内的知能は内的真理を探りだして宗教を起こし、外的知能は外的真理を探りだして科学を究明していくのである。神霊は無形世界に関する事実が、霊的五官によって霊人体に霊的に認識されてのち、これが再び肉的五官に共鳴して、生理的に認識されるのであり、一方真理は、有形世界から、直接、人間の生理的な感覚器官を通して認識されるのである。従って認識も、霊肉両面の過程を経てなされる。人間は霊人体と肉身が一つになってはじめて、完全な人間になるように創造されているので、霊的過程による神霊と肉的過程による真理とが完全に調和され、心霊と知能とが共に開発されることによって、この二つの過程を経てきた両面の認識が完全に一致する。またこのとき、はじめて人間は、神と全被造世界に関する完全な認識を持つようになるのである。このように神は、堕落によって無知に陥った人間を、神霊と真理とにより、心霊と知能とをともに開発せしめることによって、創造本然の人間に復帰していく摂理をされるのである。
 人間は神のこのような復帰摂理の時代的な恩恵を受け、その心霊と知能の程度が、歴史の流れにしたがって漸次高まっていくのであるから、それを開発するための神霊と真理もまた、その程度を高めていかなければならない。それ故に、神霊と真理とは唯一であり、また永遠不変のものであるけれども、無知の状態から、次第に復帰されていく人間に、それを教えるための範囲、或いは、それを表現する程度や方法は、時代に従って異ならざるを得ないのである。例をあげれば、人間がいまだ蒙昧にして、真理を直接受け入れることができなかった旧約前の時代においては、真理の代わりに、供え物を捧げるように摂理されたのであり、そして人間の心霊と知能の程度が高まるにしたがって、モ−セの時代には律法を、イエスの時代には福音を下さったのである。その際、イエスは、そのみ言を真理といわないで、彼自身が即ち、道であり、真理であり、命であると言われたのであった(ヨハネ一四・6)。そのわけは、イエスのみ言はどこまでも真理それ自身を表現する一つの方法であるにすぎず、そのみ言を受ける対象によって、その範囲と程度と方法とを異にせざるを得なかったからである。このような意味からして、聖書の文字は真理を表現する一つの方法であって、真理それ自体ではないということを、我々は知っていなければならない。このような見地に立脚して聖書を見るとき、新約聖書は今から二〇〇〇年前、心霊と知能の程度が非常に低かった当時の人間達に真理を教えるためにくださった、一つの過渡的な教科書であったということを、我々は知ることができるのである。それ故に、その当時の人間達を開発するためにふさわしい、限定された範囲内においての比喩、または象徴的な表現方法そのままをもって、現代の科学的な文明人達の真理への欲求を、完全に満足させるということは不可能なことだといわなければならない。
 従って、今日の知性人達に真理を理解させるためには、より高次の内容と、科学的な表現方法によらなければならないのである。これを我々は新しい真理という。そしてこの新しい真理は、既に総序において論じたように、人間の内外両面の無知を打開するために、宗教と科学とを一つの統一された課題として、完全に解決し得るものでなければならない。
 それでは新しい真理が出現しなければならない理由を、また他の方面から考察してみることにしよう。
 前にも述べたように、聖書はそれ自体が真理なのではなく、真理を教えるための教科書である。けれどもこの教科書は、その真理の重要な部分が、ほとんど象徴と比喩によって表現されている。従って、それを解釈する方法においても、人により各々差異があるので、その差異によって多くの教派が派生してくるのである。故に、教派分裂の第一原因は人間にあるのではなく、聖書自体にあるので、その分裂と闘争は継続して拡大される他はない。従って、新しい真理が出現して、象徴と比喩で表現されている聖書の根本内容を、だれもが公認し得るように解明しない限り、教派分裂とその闘争の道を防ぐことはできないのであり、従って、キリスト教の統一による復帰摂理の目的を成し遂げることはできないのである。それ故に、イエスは「わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩で話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう」(ヨハネ一六・25)と言われることによって、終末に至れば再び新しい真理のみ言をくださることを約束されたのである。
 イエスは「わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか」(ヨハネ三・12)と話されたみ言の通り、ユダヤ人達の不信によって、語ろうとするみ言も語り得ず、十字架に亡くなられたのであった。そればかりでなく、イエスは弟子達にまでも、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」(ヨハネ一六・12)と、心の中にあるみ言を、みな話すことのできない悲しい心情を表明されたのである。
 しかしイエスが語り得ず、心の中に抱いたまま亡くなられたそのみ言は、永遠に秘密として残されるのではなく、「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネ一六・13)と続いて言われたように、そのみ言は必ず聖霊により、新しい真理として教えてくださるようになっているのである。
 そして「わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった」(黙五・1)と記録されているその巻物に、イエスが我々に与えようとされたそのみ言が、封印されているのである。つづいて聖書に記録されているみ言を見れば、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見るにふさわしい者がひとりもいなかったので、ヨハネが激しく泣いていると「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き、七つの封印を解くことができる」(黙五・3〜5)と言われているのである。ここにおいて、ダビデの若枝として誕生した獅子と記されているのは、とりもなおさず、キリストを意味するのである。このようにキリストが人類の前で、長らく七つの印をもって封じ、秘密として残されていたそのみ言の封印を開き、信徒達に新しい真理のみ言として与えてくださるときが到来しなければならないので「あなたは、もう一度、多くの民族、国民、国語、王たちについて、預言せねばならない」(黙一〇・11)と言われたのであった。それ故にまた「神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者達は幻を見、老人達は夢を見るであろう。その時には、わたしの男女の僕達にもわたしの霊をそそごう。そして彼等も預言するであろう」(使徒二・17、18)とも言われたのである。このようにどの方面から見ても、終末においては必ず、新しい真理が出現しなければならないのである。

(二) 終末に際して我々がとるべき態度

 復帰摂理歴史の流れを見ると、古いものが終わろうとするとき、新しいものが始まるということを、我々は発見することができる。従って、古いものの終わる点が、即ち新しいものの始まる点ともなるのである。それ故に、古い歴史の終末期が、即ち新しい歴史の創始期ということになるのである。そして、このような時期は同じ点から出発して、各々その目的を異にし、世界的な実を結ぶようになった善と悪との二つの主権が、互いに交叉する時期となるのである。故にこの時代に処した人間達は、内的には理念と思想の欠乏によって、不安と恐怖と混沌の中に落込むようになり、外的には武器による軋轢と闘争の中で、戦慄するようになる。従って、終末においては国と国とが敵対し、民族と民族とが相争い、家族達が互いに闘いあうであろう(マタイ二四・4〜9)と聖書に記録されている通り、あらゆる悲惨な現象が実際に現われるに違いない。
 終末において、このような惨状が起こるのは、悪主権を清算して善主権を立てようとすれば、どうしても起こらざるを得ない必然的な現象であるからで、神はこのような惨状の中で、新しい時代をつくるために、善主権の中心を必ず立てられるのである。ノア、アブラハム、モ−セ、そしてイエスのような人々は、みなそのような新しい時代の中心として立てられた人々であった。それ故に、このような歴史的な転換期において、神が願うところの新しい歴史の賛同者となるためには、神が立てられた新しい歴史の中心がどこにあるかということを、探し出さなければならないのである。
 このような新しい時代の摂理は、古い時代を完全に清算した基台の上で始まるのではなく、古い時代の終末期の環境の中で芽ばえて成長するのであるから、その時代に対しては、あくまでも対立的なものとして現れる。従って、この摂理は古い時代の因習に陥っている人々には、なかなか納得ができないのである。新しい時代の摂理を担当してきた聖賢達が、みなその時代の犠牲者となってしまった理由は、まさしくここにあったのである。その実例として、未だ旧約時代の終末期であったときに、新約時代の新しい摂理の中心として来られたイエスは、旧約律法主義者達にとっては、理解することのできない異端者の姿をもって現われたので、ついにユダヤ人達の排斥を受けて殺害されてしまったのである。イエスが、「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである」(ルカ五・38)と言われた理由もまたここにあったのである。
 いまや、イエスが再び新約時代の終末期において、新しい天と新しい地のために、新しい摂理の中心として来られ、新しい時代の建設のために(黙二一・1〜7)新しい真理をくださるであろう。それ故に、イエスが初臨のときに、ユダヤ人達からベルゼブル(悪霊のかしら)の乗り移った人間として、排斥されたように(マタイ一二・24)、再臨のときにおいても、必ずや再びキリスト教信徒達の排斥を受けるに相違ないのである。故に、イエスは将来再臨なされば、自分が多くの苦難を受け、その時代の人々から見捨てられるであろうと預言されたのである(ルカ一七・25)。従って、歴史の転換期において、古い時代の環境にそのまま執着し、平安を維持しようとする人々は、古い時代と共に審判を受けてしまうのである。
 堕落した人間は神霊に対する感性が非常に鈍いために、たいていは真理面に重きを置いて復帰摂理路程を歩んでいくようになる。従って、このような人間達は、古い時代の真理観に執着しているが故に、復帰摂理が新しい摂理の時代へと転換していても、彼らはこの新しい時代の摂理にたやすく感応してついてくることが難しいのである。旧約聖書に執着していたユダヤ人達が、イエスに従って新約時代の摂理に応じることができなかったという史実は、これを立証してくれる良い例だといわなければならない。しかし、祈りをもって神霊的なものを感得しうる信徒達は、新しい時代の摂理を、心霊的に知ることができるので、古い時代の真理面においては、相克的な立場に立ちながらも、神霊によって新しい時代の摂理に応じることができるのである。それ故に、イエスに従った弟子達の中には、旧約聖書に執着していた人物は一人もおらず、専ら心に感応してくる神霊に従った人々だけであった。祈りを多く捧げる人、或いは良心的な人達が、終末において甚だしい精神的な焦燥感を免れることができない理由は、彼等が、漠然たるものであるにせよ、神霊を感得して、心では新しい時代の摂理に従おうとしているにもかかわらず、体をこの方面に導いてくれる新しい真理に接することができないからである。それ故に、神霊的にこのような状態に処している信徒達が、彼等を新しい時代の摂理へと導くことができる新しい真理を聞くようになれば、神霊と真理が、同時に彼等の心霊と知能を開発させて、新しい時代に対する神の摂理的な要求を完全に認識することができるので、彼等は言葉に尽くせない喜びをもってそれに応じることができるのである。従って、終末に処している現代人は、何よりもまず、謙遜な心をもって行なう祈りを通じて、神霊的なものを感得し得るよう努力しなければならないのである。次には、因習的な観念にとらわれず、我々は我々の体を神霊に呼応させることによって、新しい時代の摂理へと導いてくれる新しい真理を探し求めなければならない。そして探し出したその真理が、果たして自分の体のうちで神霊と一つになり、真の天的な喜びを、心霊の深いところから感ずるようにしてくれるかどうかを確認しなければならないのである。このようにすることによってのみ、終末の信徒達は、真の救いの道をたどって行くことができるのである。