原理講論第3版第6刷使用しました。

第六章  再臨論

 イエスは、再臨するということを明確に言われた(マタイ一六・27)。しかし、その日とそのときは、天使もイエスもだれも知らないと言われた(マタイ二四・36)。それゆえ、今までイエスがいつ、どのようにして、どこに来られるのかということに関しては、それについて知ろうとすることそれ自体が無謀なことのように考えられてきた。
 しかしながら、イエスが繰り返し、「ただ父だけが知っておられる」(マタイ二四・36)と言われた事実や、アモス書三章7節において、「まことに主なる神はそのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない」と言われたみ言などを総合して考えると、その日、そのときを知っておられる神は、イエスの再臨に関するあらゆる秘密を、必ず、ある預言者に知らせてから摂理されるであろうということを、知ることができる。
 それゆえ、イエスは、一方では、「もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう」(黙三・3)と言われながら、その反面においては、テサロニケz五章4節にあるごとく、光の中にいる人には、盗人のように不意に襲うことはないであろうとも言われているのである。イエスの初臨の際にも起こったことを見ても、イエスは、暗闇の中にいた祭司長たちや律法学者たちに対しては、事実、盗人のように来られたが、光の中にいた洗礼ヨハネの家庭には、イエスの誕生に関することが前もって知らされたし(ルカ一・41〜45)、また、彼が誕生したときには、東方の博士たち(マタイ二・1、2)、シメオン、アンナ、羊飼いたち(ルカ二・25〜38、ルカ二・8〜20)には、その事実を知らせてくださったのである。そしてまた、ルカ福音書二一章34節から36節にかけて、その再臨の日が、不意にわなのようにあなた方を捕えるであろうから、絶えず祈りをもってその惑わしを避け、主の前に立つことができるようにしなさいと言われていることを見ても、光の中にいる信徒たちには、その再臨の日のために準備することができるように、あらかじめそのことを知らせてくださることは明らかである。
 復帰摂理路程に現れた例から見ても、神はノアの審判のときや、ソドムとゴモラを滅ぼされるとき、あるいは、メシヤの降臨のときにおいても、常にその事実を預言者たちにあらかじめ知らせてから摂理されたのであった。したがって、神は、イエスの再臨に関しても、終末のときには神の霊をすべての人に注ぐと約束されたように(使徒二・17)、光の中にいるすべての信徒たちを通じて、耳と目とをもっている人たちには、必ず見ることができ、聞くことができるように、啓示してくださることは明らかである。

第一節 イエスはいつ再臨されるか

 イエスが再臨されるときのことを、我々は終末という。ところで、現代がすなわち終末であるということに関しては、既に前編の人類歴史の終末論において明らかにした。したがって、我々は、現代がとりもなおさず、イエスの再臨なさるときであるということを知ることができるのである。ところで、復帰摂理歴史から見れば、イエスは、蕩減復帰摂理時代(旧約時代)の二〇〇〇年を経たのちに降臨されたのである。それゆえ、蕩減復帰の原則から見れば、前時代を実体的な同時性をもって蕩減復帰する再蕩減復帰摂理時代(新約時代)の二〇〇〇年が終わるころに、イエスが再臨されるであろうということを、我々は知ることができるのである。
 さらに、第一次世界大戦に関する項目のところで詳しく説明したように、第一次大戦でドイツが敗戦することにより、サタン側のアダム型の人物であるカイゼルが滅び、サタン側の再臨主型の人物であるスタ−リンが共産主義世界をつくったということは、イエスが再臨されて共生共栄共義主義を蕩減復帰されるということを、前もって見せてくださったのである。したがって、我々は、第一次世界大戦が終了したあとから再臨期が始まったと見なければならない。

第二節 イエスはいかに再臨されるか

(一)聖書を見る観点

 神は、時ならぬ時に、時のことを暗示して、いかなる時代のいかなる環境にある人でも、自由にその知能と心霊の程度に応じて、神の摂理を対応する時代的な要求を悟るようにさせるため、すべての天倫に関する重要な問題を、象徴と比喩とをもって教示してこられたのである(ヨハネ一六・25)。それゆえ、聖書は、各々その程度の差はあるが、それを解釈する者に、みな相異なる観点を立てさせるような結果をもたらすのである。教派が分裂していくその主要な原因は、実にここにある。ゆえに、聖書を解釈するに当たっては、その観点をどこにおくかということが、最も重要な問題であるといわなければならない。 洗礼ヨハネに関する問題が、その一つの良い例となるのであるが、我々は、イエス以後二〇〇〇年間も、洗礼ヨハネがその責任を完遂したという先入観をもって聖書を読んできたので、聖書もそのように見えたのであった。ところが、それと反対の立場から聖書を再び詳しく調べてみることによって、洗礼ヨハネは、その責任を完遂できなかったという事実が明らかにされたのである(前編第四章第二節(三))。このように、我々は今日に至るまで、聖書の文字のみにとらわれ、イエスが雲に乗って来られると断定する立場から聖書を読んできたので、聖書もそのように見えたのである。しかし、イエスが雲に乗って来られるということは、現代人の知性をもってしては、到底理解できない事実であるから、我々は、聖書の文字が物語っている、その真の意味を把握するために、従来とは異なる角度で、もう一度、聖書を詳しく調べてみる必要があるのである。
 我々は、聖書の洗礼ヨハネに関する部分から、また一つの新しい観点を発見した。預言者マラキは、メシヤ降臨に先立って、既に昇天したエリヤがまず来るであろうと預言したのであった(マラキ四・5)。したがって、イエス当時のユダヤ人たちは、昇天したエリヤその人が再臨するものと思っていたから、当然エリヤは天より降りてくるであろうと信じ、その日を切望していたのである。ところが、意外にもザカリヤの息子として生まれてきた(ルカ一・13)洗礼ヨハネを指して、イエスは、彼こそがエリヤであると、明らかに言われたのである(マタイ一一・14)。我々はここにおいて、エリヤの再臨が、当時のユダヤ人たちが信じていたように、彼が天から降りてくることによってなされたのではなく、地上で洗礼ヨハネとして生まれてくることによってなされたという事実を、イエスの証言によって知ることができるのである。これと同様に、今日に至るまで、数多くの信徒たちは、イエスが雲に乗って再び来られるであろうと信じてきたのであるが、その昔、エリヤの再臨の実際が、我々に見せてくれたように、再臨のときも初臨のときと同様、彼が地上で肉体をもって誕生されるかもしれないということを、否定し得る何らの根拠もないのである。それでは、今我々はここにおいて、イエスが地上に肉身をもっての誕生というかたちで再臨される可能性があるという観点から、これに関する聖書の多くの記録を、もう一度詳しく調べてみることにしよう。
はもう一度、聖書を詳しく調べてみなければならないのである。

(二)イエスの再臨は地上誕生をもってなされる

 ルカ福音書一七章24節から25節を見ると、イエスは将来、彼が再臨されるときに起こる事柄を予想されながら、「人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」と言われたのであった。もしイエスが、聖書の文字どおりに雲に乗って、天使長のラッパの音と共に、神の栄光の中に再臨されるとするならば(マタイ二四・30、31)、いかに罪悪が満ちあふれている時代であろうとも、このような姿をもって来られるイエスを信奉しない人がいるであろうか。それゆえに、イエスがもし雲に乗って来られるとするならば、苦しみを受けられるとか、この時代の人々から捨てられるとかいうようなことは、絶対にあり得ないことといわなければならない。
 それではイエスは、なぜ、再臨されるとき、そのように不幸になると言われたのであろうか。イエス当時のユダヤ人たちは、預言者マラキが預言したように(マラキ四・5)、メシヤに先んじてエリヤが天から再臨し、メシヤの降臨に関して教示してくれることを待ち望んでいたのである。ところがユダヤ人たちは、まだエリヤが来たという知らせさえも聞かない先に、イエスが微々たる存在のまま、盗人のように突如メシヤを名乗って現れたために、彼らはイエスを軽んじ、冷遇したのであった(前編第四章第二節(二))。イエスは、このような御自身を顧みられるとき、再臨なさるときにもまた、初臨のときと同様、天だけを仰ぎ見ながらメシヤを待ち焦がれるであろうところのキリスト教信徒たちの前に、地上から誕生された身をもって、盗人のように現れるなら(黙三・3)、再び彼らに異端者として追われ、苦しみを受けることが予想されたので、そのようにこの時代の人々から捨てられなければならないと言われたのであった。したがって、この聖句はイエスが肉身をもって再臨されることによってのみ、摂理の目的が成就されるのであり、そうせずに、雲に乗って来られるのでは、決してその目的は成就されないことを示したものだということを、我々は知らなければならない。
 さらに、ルカ福音書一八章8節を見ると、イエスが、「あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」と言われたみ言がある。終末に近づけば近づくほど、篤い信仰を立てようと努力する信徒たちが次第に増えてきつつあり、しかも、雲に乗って、天使のラッパの音と共に、神の栄光のうちに主が現れるというのに、そのときなぜ信仰する人はおろか信仰という言葉さえも見ることができないほどに、信徒たちが不信に陥るはずがあろうか。このみ言もまた同じく、イエスが雲に乗って再臨されるとするならば、決してそのようになるはずがないことなのである。我々が今、イエス当時のあらゆる事情を回想してみると、ユダヤ人たちは、将来エリヤが天から降りてきたのちに、メシヤがベツレヘムに、ユダヤ人の王として誕生されるであろうと信じてきたのである(マタイ二・6)。ところがまだエリヤさえも現れていないというのに、不意に、ナザレで大工の息子として成長してきた一人の青年が、メシヤを名乗って出てきたのであるから、彼らユダヤ人の中からは、死を覚悟してまでも彼に従おうとするような、篤実な信仰を見ることができなかったのである。イエスはこのような事情を悲しまれながら、将来再臨されるときにおいても、すべての信徒たちが、イエスが雲に乗って再臨されるものと信じ、天だけを眺めるであろうから、御自分が再び地上に肉身をもって現れるなら、彼らも必ずこのユダヤ人たちと同じく、信仰という言葉さえも見られないほどに不信仰に陥るであろうということを予想されて、そのように嘆かれたのであった。それゆえに、この聖句について見ても、イエスが地上で誕生されない限り、決してそこに書かれたとおりのことは起こり得るはずがないといえるのである。
 また、この聖句を、、終末における信徒たちの受ける艱難が、あまりにも大きいために、彼らがみな不信に陥ってそのようになるのであると解釈する学者たちもいる。しかし、過去の復帰過程において、艱難が信徒たちの信仰の妨げとなったことはなかった。まして、信徒たちが信仰の最後の関門に突入する終末において、そのようなことがあり得るであろうか。艱難や苦痛が激しくなればなるほど、天からの救いの手をより強く熱望し、神を探し求めるようになるのが、万人共通の信仰生活の実態だということを我々は知らなければならない。
 そこで再び我々は、イエスが、マタイ福音書七章22節から23節にかけて、「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」と言われたみ言のあるのを見いだす。イエスの名によって奇跡を行うほど信仰の篤い信徒であるならば、栄光のうちに雲に乗って来られるイエスを、だれよりも固く信じ、忠実に従わないはずがあろうか。にもかかわらず、なぜそのような彼らが、その日イエスによって、かくまで厳しい排斥を受けるようになると言われたのであろうか。もし、そのような信仰の篤い信徒たちさえも、イエスによって見捨てられるとするならば、終末において救いを受け得る信徒は、一人もいないということになる。したがって、このみ言もまた、もしイエスが雲に乗って来られるとすれば、決して、そのようなことが生ずる道理はないのである。
 イエス当時においても、奇跡を行うほど信仰の篤い信徒たちが、相当にいたはずである。しかし、メシヤに先立ってエリヤが天から降りてくると信じていた彼らは、洗礼ヨハネこそ、ほかでもない、彼らが切に待望していたエリヤであったということを知らなかったのであり(ヨハネ一・21)、したがって、来たり給うたメシヤまでも排斥してしまったので、イエスもまた涙をのんで彼らを見捨てなければならなくなったのである。これと同様に、彼が再臨されるときにも、地上から誕生されるならば、イエスが雲に乗って来られるものと信じている信徒たちは、必ず彼を排斥するに相違ないので、いかに信仰の篤い信徒たちであろうと、彼らは不法を行う者として、イエスから見捨てられざるを得ないであろうというのがこのみ言の真意なのである。
 ルカ福音書一七章20節以下に記録されている終末観も、もし、イエスが雲に乗って再臨されるとすれば、このとおりのことが起こるということはあり得ない。したがって、イエスが地上から誕生されるという前提に立って初めて、この聖句は完全に解かれるのである。では我々はここで、これらの聖句を一つ一つ取りあげて、その内容を更に詳しく調べてみることにしよう。「神の国は、見られるかたちで来るものではない」(ルカ一七・20)。もしイエスが、雲に乗って来られるとするならば、神の国はだれもがみな見ることができるようなかたちでくるはずである。ところが初臨のときにも、イエスが誕生されることによって、既に神の国はきていたにもかかわらず、エリヤが空中から再臨するのだと信じ、それのみを待望していたユダヤ人たちは、イエスを信ずることができず、それほどまでに待ち望んできた神の国を見ることができなかったのである。このように再臨のときにも、イエスが地上に誕生されることにより、そのときから神の国がくるわけであるが、雲に乗って再臨するとばかり信じている信徒たちは、地上に再臨された主を信ずることがでぎず、待望の神の国を見ることができないようになるので、そのように言われたのである。 「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ一七・21)。イエスの初臨のときにも、まず初めに彼をメシヤと信じ、彼に従い、彼に侍った人たちにとっては、既にその心のうちに天国がつくられていたのであった。そのように再臨されるときにも、彼は地上で誕生されるのであるから、彼を先に知って、彼に侍る信徒たちを中心として見るならば、天国は先に彼らの心のうちにつくられるのであり、このような個人が漸次集まって、社会をつくり、国家を形成するようになれば、その天国は次第に見ることができる世界として現れるはずなのである。したがって、イエスが雲に乗って来られて、一瞬にして、見ることのできる天国をつくられるのではないということを、我々は知らなければならない。
「人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るであろう」(ルカ一七・22)。もし、イエスが天使長のラッパの音と共に、雲に乗って再臨されるとするならば、だれもがみな一度に彼を見ることになるので、その人の子の日を見ることができないはずはないのである。それでは、イエスはどうして人の子の日を見ることができないと言われたのであろうか。初臨のときも、イエスが地上で誕生されると同時に、人の子の日は既にそのときにきていたのであったが、不信仰に陥ったユダヤ人たちは、この日を見ることができなかった。これと同様に、再臨のときにおいても、イエスが地上に誕生される日をもって、人の子の日はくるのであるが、イエスが雲に乗って来られると信ずる信徒たちは、イエスを見ても、彼をメシャとして信ずることができないので、人の子の日が既にきているにもかかわらず、彼らはそれをそのような日として見ることができないようになるということなのである。
「人々はあなたがたに、『見よ、あそこに』『見よ、ここに』と言うだろう。しかし、そちらへ行くな、彼らのあとを追うな」(ルカ一七・23)。既に復活論で論じたごとく、終末においては、心霊がある基準に達した信徒たちは「汝は主なり」という啓示を受けるようになるのであるが、そのとき、彼らがこのような啓示を受けるようになる原理を知らなければ、自らを再臨主と自称するようになり、来たり給う主の前に、偽キリストとなるのである。それゆえに、このような人々に惑わされることを心配されて、そのような警告のみ言を下さったのである。
 「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう」(ルカ一七・24)。イエスが誕生されたとき、ユダヤ人の王が生まれたという知らせが、サタン世界のヘロデ王のところにまで聞こえ、エルサレムの人々の間で騒動が起こったと記録されている(マタイ二・2、3)。ましてや、再臨のときにおいては、交通と通信機関が極度に発達しているはずであるから、再臨に関する知らせは、あたかも、稲妻のように、一瞬のうちに東西間を往来することであろう。 ルカ福音書一七章25節に関しては、既に論じたので、ここでは省くことにする。
 「ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう」(ルカ一七・26)。ノアは、洪水審判があるということを知って、人々に箱舟の中に入るようにと呼びかけたのであるが、彼らはそれに耳を傾けず、みな滅んでしまったのである。これと同様に、イエスも地上に再臨されて、真理の箱舟の中に入るようにと人々に呼びかけるであろう。しかし、主が雲に乗って再臨するであろうと信じ、天だけを眺め入っている信徒たちは、地上から聞こえてくるそのみ言には一向耳を傾けず、かえって彼を異端者であると排斥するようになり、ノアのときと同様、彼らはみな、摂理のみ旨を信ずることができない立場に陥ってしまうであろう。
 「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(ルカ一七・33)。雲に乗って、天使長のラッパの音と共に、栄光の中で再臨される主を信ずるのであれば、死を覚悟しなければならないようなことが生ずるはずはない。ところが、イエスは地上誕生をもって再臨されるので、雲に乗って再臨されるものと固く信じている信徒たちには、彼は異端者としてしか見えず、ゆえに、彼を信じ、彼に従うためには、死を覚悟しなければならないのである。しかし、そのような覚悟をしてまで彼を信じ、彼に従うならば、その結果はかえって生きるようになるけれども、これに反し、現実的な環境に迎合して、彼を異端として排斥して生きのびようと後ずさりをするようになれば、その結果はむしろ死に陥らざるを得ないのである。
 「死体のある所には、またはげたかが集まるものである」(ルカ一七・37)。イエスは弟子たちが彼の再臨される場所を問うたとき、このように答えられた。ところで我々は、アブラハムの祭壇に供えられた、裂かなかった鳩の死体の上に荒い鳥が降りてきたという事実を知っている(創一五・11)。これは、聖別されていないものがある所には、それを取るためにサタンが付きまとうということを表示するのである。それゆえに、イエスのこの最後の答えは、死体のある所に、その死体を取ろうとしてサタンが集まるように、命の根源であられる主は、命のある所に来られるということを意味するのである。結局このみ言は、主は信仰の篤い信徒たちの中に現れるということを意味するのである。既に、復活論で述べたように、イエスの再臨期には、多くの霊人たちの協助によって、篤実な信徒たちが一つの所に集まるようになるのであるが、ここが、いわば命のある所であり、主が顕現される所となるのである。イエスは初臨のときにも、神を最も熱心に信奉してきた選民の中で誕生されたのであり、選民の中でも彼を信じ、彼に従う弟子たちの中に、メシヤとして現れ給うたのであった。
 このように、イエスが再臨されるときには、彼は地上で誕生されるので、黙示録一二章5節に、「女は男の子を産んだが、彼は鉄のつえをもってすべての国民を治めるべき者である。この子は、神のみもとに、その御座のところに、引き上げられた」と記録されているのである。ここで言っている鉄の杖とは、罪悪世界を審判しで、、地上天国を復帰する神のみ言を意味する。人類歴史の終末論で詳しく述べたように、火の審判は舌の審判であり、すなわち、これはみ言の審判をいうのである(ヤコブ三・6)。それゆえに、イエスが語られたそのみ言が、彼らを裁くと言われたのであり(ヨハネ一二・48)、不信仰な人々が裁かれ、滅ぼされるべき日に火で焼かれる、(ペテロ{三・7)とも言われ、また主は、口の息をもって不法の者を殺すとも言われたのであるニアサロニケ{二・8)。ゆえに、世を裁かれるイエスの口のむち、舌と口の息、すなわち彼のみ言こそが、その鉄の杖なのである(イザヤ一一・4)。ゆえに黙示録二章27節に、「鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう」と記録されているのである。ところがこの男の子は明らかに女の体から生まれたといわれているのであり、また彼は神のみもとに、そのみ座の所にまで引きあげられたと記録されているのである。それでは、女の体から神のみ座に座られるお方として誕生され、神のみ言をもって万国を治めるその男子とは、いったいだれであろうか。彼こそほかならぬ地上での王の王として誕生され、地上天国を成就される、再臨のイエスでなければならないのである。マタイ福音書の冒頭を見れば、イエスの先祖には四人の淫婦があったということを知ることができる。これは万民の救い主が、罪悪の血統を通じて、罪のない人間として来られてから、罪悪の血統を受け継いだ子孫たちを救われるということを見せてくださるために記録されたのである。
 今までは上述の聖句の中の「女」を、教会として解釈していた信徒たちが多かった。しかし、これはイエスが雲に乗って来られるという前提のもとで、この聖句を解釈したので、教会と解する以外に意味の取りようがなかったためにすぎない。その他、黙示録一二章17節に記録されている「女の残りの子ら」というのも、その次に記録されているように、イエスを信ずることによって、その証をもっている者たちであり、神の養子としての位置に(ロマ八・23)立っている信徒たちを意味するのである。
 イエスの再臨に関し、ある学者たちは、聖霊の降臨によって(使徒八・16)、イエスが各自の心の内に内在するようになることが(ヨハネ一四・20)、すなわち彼の再臨であると信じている。しかし、イエスは彼が十字架で亡くなられた直後、五旬節に聖霊が降臨されたときから(使徒二・4)今日に至るまで、だれでも彼を信ずる人の心の内に常に内在されるようになったのであり、もし、これをもって再臨であるとするならば、彼の再臨は既に二〇〇〇年前になされたのであると見なければならない。
 またある教派では、イエスが霊体をもって再臨されると信じている。しかしイエスはその昔、墓から三日後に復活された直後、生きておられたときと少しも変わらない姿をもって弟子たちを訪ねられたのであり(マタイ二八・9)、そのときから今日に至るまで、心霊基準の高い信徒たちのもとには、いつでも自由に訪ねてこられて、あらゆる事柄を指示されたのであった。したがって、このような再臨は既に二〇〇〇年前になされたのであると見なければならないし、もし、そうであるとするなら、今日の我々が、彼の再臨の日を、歴史的な日として、かくも望みをかけ、待ち焦がれる必要はなかったのである。
 イエスの弟子たちは、イエスの霊体とは随時会っていたにもかかわらず、その再臨の日を待望している事実から見ても、弟子たちが待っていたのは、霊体としての再臨ではなかったということを知ることができるのである。そればかりでなく、黙示録二二章20節に、イエスは、霊的にいつも会っておられた使徒ヨハネに向かって、「しかり、わたしはすぐに来る」と言われたのであり、また、このみ言を聞いたヨハネは、「主イエスよ、きたりませ」と答えたのであった。これによれば、イエス御自身も、霊体をもって地上に来られるのが再臨ではないということを既に言い表されたのであり、また使徒ヨハネも、イエスが霊体で現れることをもって彼の再臨であるとは見なしていなかったということを、我々は知ることができるのである。このように、イエスが霊体をもって再臨されるのでないとすれば、彼が初臨のときと同様、肉身をもって再臨される以外にはないということは極めて自明のことであろう。
 創造原理において詳しく述べたように、神は無形、有形の二つの世界を創造されたのち、その祝福のみ言のとおりに、二つの世界を主管させるために、人間を霊人体と肉身との二つの部分をもって創造されたのであった。しかしながら、アダムが堕落し、人間はこの二つの世界の主管者として立つことができなくなったので、主管者を失った被造物は嘆息しながら、自分たちを主管してくれる神の子たちが現れることを待ち望むようになったのである(ロマ八・19〜22)。それゆえに、イエスは、完成されたアダムの位置において、この二つの世界の完全な主管者として来られ(コリントz一五・27)、あらゆる信徒たちを御自分に接がせ(ロマ一一・17)、一体とならしめることによって、彼らをもみな被造世界の主管者として立たしめようとされたのである。しかるに、ユダヤ民族がイエスに逆らうようになったので、彼らと全人類とを神の前に復帰させるための代贖の条件として、イエスの体をサタンに引き渡され、その肉身はサタンの侵入を受けるようになったのである。したがって、肉的な救いは成就されず、後日再臨されて、それを成就すると約束されてから、この世を去られたのであった(前編第四章第一節(四))。それゆえに、今まで地上において霊肉共に完成し、無形、有形二つの世界を主管することによって、それらを一つに和動し得た人間は、一人もいなかったのである。したがって、このような基準の完成実体として再臨されるイエスは、霊体であってはならないのである。初臨のときと同様、霊肉共に完成した存在として来られ、全人類を霊肉併せて彼に接がせて、一つの肢体となるようにすることによって(ロマ一一・17)、彼らが霊肉共に完成し、無形、有形二つの世界を主菅するようになさしめなくてはならないのである。
 イエスは、地上天国を復帰されて、その復帰された全人類の真の親となられ、その国の王となるベきであった(イザヤ九・6、ルカ一・31〜33)。ところが、ユダヤ人たちの不信仰によって、その目的を成就することができなかったので、将来、再臨されて成就なさることを約束されてから、十字架で亡くなられたのである。したがって、彼が再臨されても、初臨のときと同様、地上天国をつくられ、そこで全人類の真の親となられ、また王とならなければならないのである。それゆえに、イエスは再臨されるときにも、初臨のときと同様、肉身をもって地上に誕生されなけねばならないのである。
 また、人間の贖罪は、彼が地上で肉身をつけている場にのみ可能なのである(前編第一章第六節(三)(3))。それゆえに、イエスは、この目的を達成するため、肉身をもって降臨されなければならなかったのである。しかるに、イエスの十字架による救いは、あくまでも霊的な救いのみにとどまり、我々の肉身を通して遺伝されてきたすべての原罪は依然としてそのまま残っているので、イエスはこれらを贖罪し、人間の肉的救いまで完全に成就するために、再臨されなければならないのである。したがって、そのイエスの再臨も、霊体をもってなされるのでは、この目的を達成することができないので、初臨のときと同じく、肉身をもって来られなければならないのである。我々は既に、イエスの再臨は霊体の再臨ではなくして、初臨のときと同様、肉身の再臨であるということを、あらゆる角度から明らかにした。ところがもし、イエスが霊体をもって再臨されるとしても、時間と空間を超越して、霊眼によってしか見ることのできない霊体が、物質でできている雲に乗って来られるということは、どう考えても、不合理なことといわなければならない。しかも、彼の再臨が霊体でなされるのでなく、肉身をもってなされるということが事実であるとすれば、その肉身をもって空中のいずこにおられ、いかにして雲に乗って来られるのであろうか。これに対しては、全能なる神であるなら、どうしてそのような奇跡を行い得ないはずがあろうかと、反問される人がいるかもしれない。しかし、神は自ら立てられた法則を、自らが無視するという立場に立たれることはできないのである。したがって神は、我々と少しも異なるところのない肉身をとって再臨されなければならないイエスを、わざわざ地球でない、他のどこかの天体の空間の中におかれ、雲に乗って再臨されるようにするというような非原理的摂理をされる必要はさらになく、また、そのようなことをなさることもできないのである。今まで調べてきた、あらゆる論証に立脚してみるとき、イエスの再臨が、地上に肉身をもって誕生されることによってなされるということは、だれも疑う余地のないものといわなければならない。

(三)雲に乗って来られるという聖句は何を意味するのか

として解釈するほかはないとするならば、同じ句節の中にある「雲」という語句を、これまた比喩として解釈しても、何ら不合理なことはないはずである。
 それでは、雲とは果たして何を比喩した言葉であろうか。雲は地上から汚れた水が蒸発(浄化)して、天に昇っていったものをいう。しかるに、黙示録一七章15節を見ると、水は堕落した人間を象徴している。したがって、このような意味のものとして解釈すれば、雲は、堕落した人間が新生し、その心が常に地にあるのでなく、天にある、いわば信仰の篤い信徒たちを意味するものであるということを知り得るのである。また雲は、聖書、あるいは古典において、群衆を表示する言葉としても使用されている(ヘブル一二・1)。そればかりでなく、今日の東洋や西洋の言語生活においても、やはりそのように使われているのを、我々はいくらでも見いだすことができるのである。またモーセ路程において、イスラエル民族を導いた昼(+)の雲の柱は、将来、同じ民族の指導者として来られるイエス(+)を表示したのであり、夜(−)の火の柱は、イエスの対象存在として、火の役割をもってイスラエル民族を導かれる聖霊(−)を表示したのであった。我々は、以上の説明により、イエスが雲に乗って来られるというのは、イエスが新生した信徒たちの群れの中で、第二イスラエルであるキリスト教信徒たちの指導者として現れるということを意味するものであることが分かる。既に詳しく考察したように、弟子たちがイエスに、どこに再臨されるかということについて質問したとぎ(ルカ一七・37)、イエスが、死体のある所にははげたかが集まるものであると答えられたそのみ言の真の内容も、その裏として信仰の篤い信徒たちが集まる所にイエスが来られるということを意味したのであって、要するに、雲に乗って来られるというみ言と同一の内容であることを、我々は知ることができる。
 雲を、以上のように比喩として解釈すると、イエスは初臨のときにも、天から雲に乗って来られた方であったと見ることができるのである。なんとなれば、コリントI一五章47節に、「第一の人(アダム)は地から出て土に属し、第二の人(イエス)は天から来る」とあるみ言や、また、ヨハネ福音書三章13節に、「天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない」とあるみ言のとおり、イエスは事実上、地上で誕生されたのであるが、その目的や、価値を中心として見るときには、彼は明らかに、天より降りてこられた方であったからである。ダニエル書七章13節に、初臨のときにも、イエスがやはり雲に乗って来られるといい表していた理由も、実はここにあったのである。
(四)イエスはなぜ雲に乗って再臨されると言われたのか

 イエスが、雲に乗って再臨されると言われたのには、二つの理由があった。第一には、偽キリストの惑わしを防ぐためであった。もしイエスが地上で肉身誕主によって再臨されるということを言われたとすれば、偽キリストの惑わしによる混乱を防ぐことができなかったであろう。イエスが卑賤な立場から立ってメシヤとして現れたのであるから、いかに卑賤な人であっても霊的にある基準に到達するようになれば、それぞれが再臨主であると自称するようになって世を惑わすからである。しかし、幸いにもあらゆる信徒たちがイエスが雲に乗って来られると信じ、天だけを仰いできたので、この混乱を免れることができたのである。ところが今はときが到来したので、イエスが再び地上で誕生されるということを、明らかに教えてやらなければならないのである。
 第二には、険しい信仰の路程を歩いている信徒たちを激励するためであった。イエスはこのほかにも、なるベく早く神の目的を達成しようとされて、信徒たちを激励されるために、前後のつじつまがよく合わないようなみ言を語られた例が少なくなかった。その実例を挙げてみると、マタイ福音書一〇章23節に、イエスは弟子たちに彼の再臨がすぐに成就されるということを信じさせるために、「よく言っておく。あなたがたがイスラエルの町々を回り終らないうちに、人の子は来るであろう」と言われたみ言が記録されており、またヨハネ福音書二一章18節から22節までに記録されているみ言を見ると、イエスが、将来ペテロが殉教するであろうことを暗示されたとき、このみ言を聞いていたベテロが、「主よ、この人(ヨハネ)はどうなのですか」と問うた質問に対して、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたには何の係わりがあるか」と答えられたのである。このみ言によって、ヨハネが世を去る前にイエスが再臨されるのではなかろうかと待ち望んだ弟子たちもいたのであった。またマタイ福音書一六章28節を見ると、イエスは、「よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」と言われたので、弟子たちは、自分たちが生きている間に、再臨されるイエスに会うかもしれないと考えていたのであった。
 このようにイエスはすぐにでも再臨されるかのように話されたので、弟子たちはイエスの再臨を熱望する一念から、ローマ帝国の圧政とユダヤ教の迫害の中にあっても、かえって聖霊の満ちあふれる恩恵を受けて(使徒二・1〜4)、初代教会を創設したのであった。イエスが雲に乗り、神の権威と栄光の中で、天からの天使のラッパの音と共に降臨され、稲妻のごとくにすべてのことを成就されると言われたのも、多くの苦難の中にある信徒たちを鼓舞し、激励するためだったのである。

第三節 イエスはどこに再臨されるか 

 イエスが霊体をもって再臨されるのでなく、地上から肉身をもった人間として、誕生されるとするならば、彼は神が予定されたところの、そしてある選ばれた民族の内に誕生されるはずである。

(一)イエスはユダヤ民族の内に再臨されるか 

 黙示録七章4節に、イエスが再臨されるとき、イスラエルの子孫のあらゆる部族の中から、一番先に救いの印を押される者が、十四万四千人であると記録されているみ言、また弟子たちがイスラエルの町々を回り終わらないうちに人の子がくるであろう(マタイ一〇・23)と言われたみ言、そしてまたイエスのみ言を聞いている人々の中で、人の子がその王権をもってこられるのを、生き残って見る者がいる(マタイ一六・28)と言われたみ言などを根拠として、イエスがユダヤ民族の内に再臨されるのだと信じている信徒たちが随分多い。しかしそれらはみな、神の根本摂理を知らないために、そのように考えるのである。
 マタイ福音書二一章33節から43節によると、イエスはぶどう園の主人と農夫およびその息子と僕の例をもって、自分を殺害する民族には再臨されないばかりでなく、その民族にゆだねた遺業までも奪いとって、彼の再臨のために実を結ぶ他の国と民族にそれを与えると、明らかに言われたのである。この比喩において、主人は神を、ぶどう園は神の遺業を、また農夫はこの遺業をゆだねられたイスラエルの選民を、そして僕は預言者を、主人の息子はイエスを、その実を結ぶ異邦人は、再臨されるイエスを迎えて神のみ旨を成就することができる他のある国の民を、各々意味するのである。それではイエスは、なぜイスラエルの子孫たちに再臨されると言われたのであろうか。この問題を解明するために、まず我々は、イスラエルとは何を意味するものかということについて調ベてみることにしよう。
 イスラエルという名は、ヤコブが「実体献祭」のためのアベルの立場を確立するために、ヤボク河で天使と闘い、それに打ち勝つことによって、「勝利した」という意味をもって天から与えられた名であった(創三二・28)。ヤコブはこのように、アベルの立場を確立したのち、「実体献祭」に成功することによって、「メシャのための家庭的な基台」を造成したのである。したがって、この基台の上で、その目的を継承した子孫たちをイスラエル選民というのである。ここでイスラエル選民というのは、信仰をもって勝利した民族を意味するものであり、ヤコブの血統的な子孫であるからといって、彼らのすべてをいうのではない。それゆえに洗礼ヨハネは、ユダヤ人たちに、「自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ」(マタイ三・9)と言ったのである。のみならずパウロは、「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼でありて、そのほまれは人からではなく、神から来るのである」(ロマ二・28、29)と言い、また「イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではな」いと証言したのであった(ロマ九・6)。このみ言はつまり、神のみ旨のために生きもしないで、ただアブラハムの血統的な子孫であるという事実のみをもって、選民であるとうぬぼれているユダヤ人たちを、叱責したみ言であったのである。
 それゆえに、ヤコブの子孫たちがモーセを中心として、エジプト人と戦いながらその地を出発したときには、イスラエル選民であったが、彼らが荒野で神に反逆したときには、もう既にイスラエルではなかったのである。したがって、神は彼らをみな荒野で滅ぼしてしまわれ、モーセに従ったその子孫たちだけをイスラエル選民として立て、カナンに入るようにされたのであった。そしてまた、その後のユダヤ民族はすべてがカナンの地に入った者の子孫たちであったが、そのうち神に背いた十部族からなる北朝イスラエルは、もはやイスラエル選民ではなかったので、滅ぼしてしまわれ、神のみ旨に従った二部族からなる南朝ユダだけがイスラエル選民となって、イエスを迎えるようになったのである。しかし、そのユダヤ人たちも、イエスを十字架に引き渡したことによって、イスラエル選民の資格を完全に失ってしまった。そこでパウロは、彼らに対して先に挙げたようなみ言をもって、選民というものの意義を明らかにしたのである。
 それでは、イエスが十字架で亡くなられてからのちのイスラエル選民は、いったいだれなのであろうか。それは、とりもなおさず、アブラハムの信仰を受け継ぎ、その子孫が完遂できなかったみ旨を継承してきた、キリスト教信徒たちなのである。ゆえにロマ書一一章11節に「彼ら(ユダヤ人たち)の罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである」と言って、神の復帰摂理の中心が、イスラエル民族から異邦人に移されてしまったことを明らかにしているのである(使徒一三・46)。したがって、「再臨されるメシャのための基台」を造成しなければならないイスラエル選民とは、アブラハムの血統的な子孫をいうのではなく、あくまでもアブラハムの信仰を継承したキリスト教信徒たちをいうのだということが分かるのである。

(二)イエスは東の国に再臨される

 マタイ福音書二一章33節以下でイエスが比喩をもって言われたとおり、ユダヤ人たちはイエスを十字架に引き渡すことによって、ぶどう園の主人の息子を殺害した農夫の立場に陥ってしまりたのであった。それではユダヤ人たちから奪った神の遺業を相続して実を結ぶ国はどの国なのであろうか。聖書はその国が「日の出づる方」すなわち東の方にあると教えているのである。
 黙示録五章1節以下のみ言を見ると、神の右の手に、その内側にも外側にも文字が書かれてあり、七つの封印で封じられた巻物があるのであるが、しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見るにふさわしい者が、一人もいなかったので、ヨハネは激しく泣いたとある。そのときに小羊(イエス)が現れて、み座におられる方の右の手から巻物を受けとって(黙五・7)、その封印を一つずつ解きはじめられたのである(黙六・1)。
 黙示録六章12節にイエスが第六の封印を解かれたことについて記録したのち、最後の封印を解かれる前の中間の挿話として、第七章が記録されたのであった。ところで、その七章2節から3節を見ると、日の出る方、すなわち東の方から天使が上ってきて、最後の審判において選ばれた十四万四千の群れの額に、小羊とその父の印を押される(黙一四・1)と書かれているのである。このことから、神の遺業を受け継いで、イエスの再臨のための実を結ぶ国は(マタイ二一・43)東方にあるということが分かってくる。では、東方にある多くの国々の中で、どの国がこれに当たるのであろうか。

(三)東方のその国は、すなわち韓国である

 今まで説明したように、イエスは、アブラハムの血統的な子孫たちに再臨されるのではなく、彼らの遺業を相続して実を結ぶ国に再臨されることを我々は知り、また、実を結ぶ国は、東方の国の中の一つであることも知った。古くから、東方の国とは韓国、日本、中国の東洋三国をいう。ところがそのうちの日本は代々、天照大神を崇拝してきた国として、更に、全体主義国家として、再臨期に当たっており、また、以下に論述するようにその当時、韓国のキリスト教を過酷に迫害した国であった(後編第五章第四節(三)(3)参照)。そして中国は共産化した国であるため、この二つの国はいずれもサタン側の国家なのである。したがって端的にいって、イエスが再臨される東方のその国は、すなわち韓国以外にない。それではこれから、韓国が再臨されるイエスを迎え得る国となる理由を原理に立脚して多角的に論証してみることにする。メシヤが降臨される国は、次のような条件を備えなければならないのである。

(1)この国は蕩減復帰の民族的な基台を立てなければならない

 韓国がメシヤを迎え得る国となるためには、原理的に見て、天宙的なカナン復帰のための「四十日サタン分立の民族的な基台」を立てなければならないのである。
 それでは、韓国民族がこの基台を立てなければならない根拠は何であるのか。イエスが韓国に再臨されるならば、韓国民族は第三イスラエル選民となるのである。旧約時代に、神のみ旨を信奉し、エジプトから迫害を受けてきた、アブラハムの血統的な子孫が第一イスラエルであり、第一イスラエル選民から異端者として追われながら、復活したイエスを信奉して、第二次の復帰摂理を継承してきたキリスト教信徒たちが第二イスラエル選民であった。ところが、ルカ福音書一七章25節以下に、イエスが再臨されるときにもノアのときと同じく、まず多くの苦難を受けるであろうと預言されたとおり、再臨のイエスは、第二イスラエル選民であるすベてのキリスト教信徒たちからも異端者として見捨てられるほかはないということを、我々は、既に論じたことを通じて知っているのである。もしそのようになるとすれば、あたかも、神が、イエスを排斥したユダヤ人たちを捨てられたように、再臨のイエスを迫害するキリスト教信徒たちも捨てられるほかはないであろう(マタイ七・23)。そうすれば、再臨主を信奉して、神の第三次摂理を完遂しなければならないその民族は、第三イスラエル選民となるのである。
 ところで、第一イスラエルは、民族的カナン復帰路程を出発するための「四十日サタン分立基台」を立てるために、当時サタン世界であったエジプトで、四〇〇年間を苦役したのであった。これと同じく、第二イスラエルも、世界的カナン復帰路程を出発するための「四十日サタン分立基台」を立てるために、当時、サタンの世界であったローマ帝国で、四〇〇年間迫害を受けながら闘い勝利したのである。したがって、韓国民族も、第三イスラエル選民となり、天宙的なカナン復帰路程を出発するための「四十日サタン分立基台」を立てるためには、サタン側のある国家で、四十数に該当する年数の苦役を受けなければならないのであり、これがすなわち、日本帝国に属国とされ、迫害を受けた四十年期間であったのである。
 それでは韓国民族は、どのような経緯を経て、日本帝国のもとで四十年間の苦役を受けるようになったのであろうか。韓国に対する日本の帝国主義的侵略の手は、乙巳保護条約によって伸ばされた。すなわち一九〇五年に、日本の伊藤博文と当時の韓国学部大臣であった親日派李完用らによって、韓国の外交権一切を日本帝国の外務省に一任する条約が成立した。そうして、日本は韓国にその統監(のちの総督)をおき、必要な地域ごとに理事官をおいて、一切の内政に干渉することによって、日本は事実上韓国から政治、外交、経済などすべての主要部門の権利を剥奪したのであるが、これがすなわち乙巳保護条約であった。
 西暦一九一〇年、日本が強制的に韓国を合併した後には、韓国民族の自由を完全に剥奪し、数多くの愛国者を投獄、虐殺し、甚だしくは、皇宮に侵入して王妃を虐殺するなど、残虐無道な行為をほしいままにし、一九一九年三月一日韓国独立運動のときには、全国至る所で多数の良民を殺戮した。
 さらに、一九二三年に発生した日本の関東大震災のときには、根も葉もない謀略をもって東京に居住していた無辜の韓国人たちを数知れず虐殺したのであった。一方、数多くの韓国人たちは日本の圧政に耐えることができず、肥沃な故国の山河を日本人に明け渡し、自由を求めて荒漠たる満州の広野に移民し、臥薪嘗胆の試練を経て、祖国の解放に尽力したのであった。日本軍は、このような韓国民族の多くの村落を探索しては、老人から幼児に至るまで全住民を一つの建物の中に監禁して放火し、皆殺しにした。日本はこのような圧政を帝国が滅亡する日まで続けたのであった。このように、三・一独立運動で、あるいは満州広野で倒れた民衆は主としてキリスト教信徒たちであったのであり、さらに帝国末期にはキリスト教信徒に神社参拝を強要し、これに応じない数多くの信徒を投獄、または虐殺した。それだけではなく、八・一五解放直前の日本帝国主義の韓国キリスト教弾圧政策は、実に極悪非道なものであった。しかし、日本の天皇が第二次大戦において敗戦を宣言することによって韓国民族は、ついにその軛から解放されたのである。
 このように韓国民族は、一九〇五年の乙巳保護条約以後一九四五年解放されるときまで四十年間、第一、第二イスラエル選民が、エジプトやローマ帝国で受けたそれに劣らない迫害を受けたのである。そして、この独立運動が主に国内外のキリスト教信徒たちを中心として起こったので、迫害を受けたのが主としてキリスト教信徒たちであったことはいうまでもない。

(2)この国は神の一線であると同時にサタンの一線でなければならない

 神は、アダムに被造世界を主管するようにと祝福されたので、サタンが堕落したアダムとその子孫たちを先に立たせて、その祝福型の非原理世界を先につくっていくことを許さないわけにはいかなくなったのである。その結果、神はそのあとを追いながらこの世界を天の側に復帰してこられたので、歴史の終末に至れば、この世界は、必然的に民主と共産の二つの世界に分かれるようになるということは、前に述べたとおりである。ところで、イエスは、堕落世界を創造本然の世界に復帰されるために再臨されるのであるから、まず再臨されるはずの国を中心として、共産世界を天の側に復帰するための摂理をなさるということは確かである。それゆえ、イエスが再臨される韓国は神が最も愛される一線であると同時に、サタンが最も憎む一線ともなるので、民主と共産の二つの勢力がここで互いに衝突しあうようになるのであり、この衝突する一線がすなわち三十八度線である。すなわち、韓国の三十八度線はこのような復帰摂理によって形成されたものである。
 神とサタンの対峙線において、勝敗を決する条件としておかれるものが供え物である。ところで、韓国民族は天宙復帰のため、この一線におかれた民族的供え物であるがゆえに、あたかも、アブラハムが供え物を裂かなければならなかったように、この民族的な供え物も裂かなければならないので、これを三十八度線で裂き、「カイン」「アベル」の二つの型の民族に分けて立てたのである。したがって、この三十八度線は民主と共産の一線であると同時に、神とサタンの一線ともなるのである。それゆえ、三十八度線で起きた六・二五動乱(韓国動乱)は国土分断に基づく単純な同族の抗争ではなく、民主と共産、二つの世界間の対決であり、さらには神とサタンとの対決であった。六・二五動乱に国連加盟の多くの国家が動員されたのは、この動乱が復帰摂理の目的のための世界性を帯びていたので、無意識のうちに、この摂理の目的に合わせて韓国解放の事業に加担するためであったのである。
 人間始祖が堕落するときに、天の側とサタンの側が一点において互いに分かれるようになったので、生と死、善と悪、愛と憎しみ、喜びと悲しみ、幸福と不幸なども、一点を中心として、長い歴史の期間において衝突しあってきたのであった。そうして、これらが、アベルとカインの二つの型の世界として、各々分離されることにより、民主と共産の二つの世界として結実したのであり、それらが再び韓国を中心として、世界的な規模で衝突するようになったのである。それゆえ、宗教と思想、政治と経済など、あらゆるものが、韓国において摩擦しあい、衝突して、大きな混乱を巻き起こしては、これが世界へと波及していくのである。なぜなら、先に霊界で起こったそのような現象が、復帰摂理の中心である韓国を中心として、実体的に展開され、それが世界的なものヘと拡大していくようになるからである。しかし、イエスが「その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる」(マタイ二四・32)と言われたそのみ言のとおり、このような混乱が起こるというのは、新しい秩序の世界がくるということを目で見せてくれる、一つの前兆であるということを知らなければならない。
 弟子たちがイエスに、その再臨される場所について質問したとき、イエスは、「死体のある所には、またはげたかが集まるものである」と答えられたのであった(ルカ一七・37)。神の一線であり、またサタンの一線である韓国で、永遠の命と死とが衝突するようになるので、はげたかで象徴されるサタンが死の群れを探し求めてこの土地に集まると同時に、命の群れを探し求めるイエスも、またこの土地に来られるようになるのである。

(3)この国は神の心情の対象とならなければならない

 神の心情の対象となるためには、まず、血と汗と涙の道を歩まなければならない。サタンが人間を主管するようになってから、人間は神と対立するようになったので、神は子女を失った父母の心情をもって悲しまれながら悪逆無道の彼らを救おうとして、罪悪世界をさまよわれたのであった。そればかりでなく、神は、天に反逆する人間たちを救うために、愛する子女たちを宿敵サタンに犠牲として支払われたのであり、ついにはひとり子イエスまで十字架に引き渡さなければならないその悲しみを味わわれたのであった。それゆえに、神は、人間が堕落してから今日に至るまで、一日として悲しみの晴れるいとまもなく、そのため、神のみ旨を代表してサタン世界と戦う個人と家庭と民族とは、常に血と汗と涙の道を免れることがなかったのである。悲しまれる父母の心情の対象となって、忠孝の道を歩んでいく子女が、どうして安逸な立場でその道を歩むことができるであろうか。それゆえ、メシヤを迎え得る民族は、神の心情の対象として立つ孝子、孝女でなくてはならないので、当然血と汗と涙の路程を歩まなければならないのである。
 第一イスラエルも苦難の道を歩み、第二イスラエルもそれと同じ路程を歩んだのであるから、第三イスラエルとなる韓国民族も、やはりまた、正にその悲惨な道を歩まざるを得ないのである。韓国民族が歩んできた悲惨な歴史路程は、このように神の選民として歩まなければならない当然の道であったので、実際には、その苦難の道が結果的に韓国民族をどれほど大きな幸福へ導くものとなったかもしれないのである。
 つぎに、神の心情の対象となる民族は、あくまでも善なる民族でなければならない。韓国民族は単一血統の民族として、四〇〇〇年間悠久なる歴史を続け、高句麗、新羅時代など強大な国勢を誇っていたときにも侵攻してきた外国勢力を押しだすにとどまり、一度も他の国を侵略したことはなかった。サタンの第一の本性が侵略性であるということに照らしあわせてみれば、こうした面から見ても、韓国民族は天の側であることが明らかである。神の作戦は、いつも攻撃を受ける立場で勝利を獲得する。それゆえに、歴史路程において数多くの預言者や善人たちが犠牲にされ、またひとり子であられるイエスまでも十字架につけられたのであるが、結果的には、勝利は常に天の側に帰せられてきたのであった。第一次、第二次の世界大戦においても、攻撃を加えたのはサタン側であったが、勝利はすべて天の側に帰したのである。このように韓国民族は有史以来、幾多の民族から侵略を受けたのである。しかし、これはどこまでも韓国民族が天の側に立って最終的な勝利を獲得するためなのである。
 韓国民族は先天的に宗教的な天禀をもっている。そして、その宗教的な性向は常に現実を離れたところで現実以上のものを探し求めるものである。それゆえ、韓国民族は民度が非常に低かった古代から今日に至るまで敬天思想が強く、いたずらに自然を神格化することによって、そこから現実的な幸福を求めるたぐいの宗教は崇敬しなかった。そうして、韓国民族は古くから、忠、孝、烈を崇敬する民族性をもっているのである。この民族が「沈清伝」や「春香伝」を民族を挙げて好むのは、忠、孝、烈を崇敬する民族性の力強い底流からきた性向なのである。

(4)この国には預言者の証拠がなければならない

 韓国民族に下された明白な預言者の証拠として、第一に、この民族は啓示によって、メシヤ思想をもっているという事実である。第一イスラエル選民は、預言者たちの証言によって(マラキ四・2〜5、イザヤ六〇・1〜22)、将来メシヤが王として来て王国を立て、自分たちを救ってくれるであろうと信じていたし、第二イスラエル選民たちもメシヤの再臨を待ち望みながら、険しい信仰の道を歩んできたのと同じく、第三イスラエル選民たる韓国民族も李朝五〇〇年以来、この地に義の王が現れて千年王国を建設し、世界万邦の朝貢を受けるようになるという預言を信じる中で、そのときを待ち望みつつ苦難の歴史路程を歩んできたのであるが、これがすなわち、鄭鑑録信仰による韓国民族のメシヤ思想である。韓国に新しい王が現れるという預言であるので、執権者たちはこの思想を抑圧し、特に日本帝国時代の執権者たちは、この思想を抹殺しようとして、書籍を焼却するなどの弾圧を加えた。また、キリスト教が入ってきたのち、この思想は迷信として追いやられてきた。しかし、韓国民族の心霊の中に深く刻まれたこのメシヤ思想は、今日に至るまで連綿と受け継がれてきたのである。以上のことを知ってみれば、韓国民族が苦悶しつつ待ち望んできた義の王、正道令(神の正しいみ言をもってこられる方という意味)は、すなわち韓国に再臨されるイエスに対する韓国式の名称であった。神はいまだ韓国内にキリスト教が入ってくる前に、将来メシヤが韓国に再臨されることを「鄭鑑録」で教えてくださったのである。そして、今日に至ってこの本の多くの預言が聖書の預言と一致するという事実を、数多くの学者たちが確認するに至っている。
 第二に、この民族が信じている各宗教の開祖が、すべてこの国に再臨するという啓示をその信徒たちが受けているという事実である。既に、前編第三章において詳述したように、文化圏発展史から見ても、あらゆる宗教は一つのキリスト教に統一されていくという事実からして、終末におけるキリスト教は今まで数多くの宗教の目的を完成させる最終的な宗教でなければならない。したがって、キリスト教の中心として再臨されるイエスは、そのすべての宗教の開祖たちが地上で成就しようとした宗教の目的を一括して完成されるのであるから、この再臨主は使命の立場から見て、あらゆる開祖たちの再臨者ともなるのである(前編第五章第二節(四))。したがって、多くの宗教において、啓示によって韓国に再臨すると信じられているそれらの開祖は、別の人物ではなく、実は、将来来られる再臨主ただ一人を指しているのである。すなわち、将来イエスが再臨されることを、仏教では弥勒仏が、儒教では真人が、天道教では崔水雲が、そして、「鄭鑑録」では正道令が顕現すると、教団ごとに各々、異なった啓示を受けてきたのである。
 第三に、イエスの韓国再臨に関する霊通人たちの神霊の働きが雨後の竹の子のように起こっているという事実である。使徒行伝二章17節に、終末においては神の霊をすべての人に注ぐと約束されたみ言があるが、このみ言どおりの現象が韓国民族の中で起きているのである。それゆえに、数多くの修道者たちが雑霊界から楽園級霊界に至るまでの様々の層の霊人たちと接触するなかで、それぞれ、主の韓国再臨に関する明確な啓示を受けているのである。しかし、霊的な無知によって、いまだにこのような事実に少しも耳を傾けようとせず、深い眠りに陥っている人々がいる。それがすなわち、現キリスト教界の指導者たちなのである。これは、あたかも、イエス当時において、東方の博士や羊飼いたちは、啓示によって、メシヤ降臨に関する消息を聞き知っていたにもかかわらず、むしろだれよりも先にこのことを知らなければならなかった祭司長たちや、律法学者たちが、霊的な無知によって、このことを全く知らなかったのと軌を一にするといわなければなるまい。
 イエスが「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました」(マタイ一一・25)と言われたのは、当時のユダヤ教界の指導者層の霊的な無知を嘆かれたと同時に、無知ではありながらも、幼な子のごとく純真な信徒たちに天のことを教示してくださった恩恵に対する感謝のみ言であった。そのときと同時性の時代に当たる今日の韓国教界においても、それと同じ事実が、より高次的なものとして反復されているのである。神は、幼な子のような平信徒たちを通じて、終末に関する天の摂理の新しい事実を、多く啓示によって知らせておられるのである。しかし、彼らがその内容を発表すれば、教職者たちによって異端と見なされ追放されるのでそのことに関しては、一切発表をせずに秘密にしているのが、今日の韓国キリスト教界の実情である。あたかもかつての祭司長や律法学者たちがそうであったように、今日の多くのキリスト教指導者たちは、聖書の文字を解く知識のみを誇り、多くの信者たちから仰がれることを好み、その職権の行使に満足するだけで、終末に対する神の摂理に関しては、全く知らないままでいるのである。このような痛ましい事実がまたとあろうか。

(5)この国であらゆる文明が結実されなければならない

 既に述べたように(前編第三章第五節(一))、人間の霊肉両面にわたる無知を打開しようとして生じた宗教と科学、または、精神文明と物質文明が、一つの課題として解明されて初めて、人生の根本問題がみな解かれ、創造理想世界が建設されるようになるのである。ところで、イエスが再臨されてつくらなければならない新しい世界は、科学が最高度に発達した世界でなければならないから、復帰摂理の縦的な歴史路程において発達してきたあらゆる文明は、再臨されるイエスを中心とする社会で、横的に、一時に、その全部が復帰され、最高度の文明社会が建設されなければならない。したがって、有史以来、全世界にわたって発達してきた宗教と科学、すなわち、精神文明と物質文明とは、韓国を中心として、みな一つの真理によって吸収融合され、神が望まれる理想世界のものとして結実しなければならないのである。
 第一に、陸地で発達した文明も韓国で結実しなければならない。したがって、エジプトで発祥した古代の大陸文明は、ギリシャ、ローマ、イベリヤなどの半島文明として移動し、その半島文明は再び英国の島嶼文明として移動するようになり、この島嶼文明は更に米国の大陸文明をつくったのち、日本の島嶼文明ヘと振り戻ったのであった。この文明の巡礼は、イエスが再臨される韓国で半島文明として終結されなければならない。
 第二に、河川と海岸を中心とした文明も韓国が面する太平洋文明として結実しなければならない。ナイル河、チグリス河、ユーフラテス河などを中心として発達した河川文明は、ギリシャ、ローマ、スペイン、ポルトガルなどの地中海を中心とした文明として移動したのであり、この地中海文明は、再び、英国、米国を中心とした大西洋文明として移動したのであり、この文明は、アメリカ、日本、韓国をつなぐ太平洋文明として結実するようになるのである。
 第三に、気候を中心とした文明も韓国で結実しなければならない。気候を中心にして見れば、あらゆる生物の活動と繁殖は、春から始まって、夏には繁茂し、秋には結実し、冬に至って蓄えるようになるのである。このような春、夏、秋、冬の変転は、年を中心としてのみあるのではなく、一日について見ても、朝は春、昼は夏、夕方は秋、夜は冬に、各々該当するのであり、人生一代の幼、青、壮、老もまた、そのような関係にあるのである。歴史の全期間もこのように進行するのであるが、それは、神がそのような季節的な造化の原則をもって被造世界を創造されたからである。
 神が、アダムとエバを創造された時代は、春の季節に相当するときであった。したがって、人類の文明は、エデンの温帯文明から始まって、夏の季節に該当する熱帯文明に移り変わり、そのつぎには、秋の季節に該当する涼帯文明として移り変わったのち、最後には冬の季節に該当する寒帯文明として移り変わらなければならなかったのである。ところが、人間は堕落することによって、野蛮人と化してしまったので、温帯文明をつくることができず、直ちに熱帯で原始人の生活をするようになったため、エジプト大陸を中心とした熱帯文明を先につくるようになったのであった。そうして、この文明は、大陸から半島、島嶼ヘと移されて、涼帯文明をつくったのであり、これが再びソ連に渡って寒帯文明をつくるようになったのである。そうして今や、新時代の夜明けとともに、再び新しいエデンの温帯文明が、大きく開かれなければならないのであり、これは、当然、すべての文明が結実しなければならない韓国において成就されなければならないのである。

第四節 同時性から見たイエス当時と今日

 イエスの初臨のときと彼の再臨のときとは、摂理的な同時性の時代である。それゆえに、今日のキリスト教を中心として起こっているすべての事情は、イエス当時のユダヤ教を中心として起こったあらゆる事情にごく似かよっている。
 このような実例を挙げてみるならば、第一は、今日のキリスト教はユダヤ教と同じく、教権と教会儀式にとらわれている一方、その内容が腐敗しているという点である。イエス当時の祭司長と律法学者たちを中心とした指導者層は、形式的な律法主義の奴隷となり、その心霊生活が腐敗していたので、良心的な信徒であればあるほど、心霊の渇きを満たすために異端者として排斥されていたイエスに、蜂の群れのように従っていったのであった。このように、今日のキリスト教においても、教職者をはじめとする指導層が、その教権と教会儀式の奴隷となり、心霊的に日に日に暗がりの中に落ちこんでいくのである。ゆえに、篤実なキリスト教信徒たちは、このような環境を離れて、信仰の内的な光明を体恤しようとして、真なる道と新しい指導者を尋ねて、野山をさまよっているのが実態である。 つぎに、今日のキリスト教信徒たちも、イエスの初臨のときのユダヤ教徒と同じく、イエスが再臨されるならば、彼らが真っ先に主を迫害するようになる可能性があるということについては、前のところで既に詳しく論じたとおりである。イエスは預言者たちによってもたらされた旧約のみ言を成就されたのち、その基台の上で新しい時代をつくるための目的をもって来られた方であったので、彼は旧約のみ言のみを繰り返して論ずるだけにとどまらず、新しい時代のための新しいみ言を与えてくださったのであった。ところが、祭司長と律法学者たちは、イエスのみ言を旧約聖書の言葉が示す範囲内で批判したため、そこからもたらされるつまずきによって、ついにイエスを十字架に引き渡す結果にまで至ったのである。
 これと同様に、イエスが再臨される目的も、キリスト教信徒たちが築いてきた新約時代の霊的な救いの摂理の土台の上に、新しい天と新しい地を建設されようとするところにあるために(黙二一・1〜4)、将来彼が再臨されれば、既に二〇〇〇年前の昔に語り給うた新約のみ言を再び繰り返されるのではなく、新しい天と新しい地を建設するために必粟な、新しいみ言を与えてくださるに相違ないのである。しかし、聖書の文字のみにとらわれている今日のキリスト教信徒たちは、初臨のときと同じく、再臨主の言行を、新約聖書の言葉が示す範囲内で批判するようになるので、結局、彼を異端者として排斥し、迫害するであろうということは明白な事実である。イエスが再臨されるとき、まず多くの苦しみを受けるであろうと言われた理由は、正にここにあるのである(ルカ一七・25)。
 また、イエスの再臨に関する啓示と、再臨されてから下さるみ言を受け入れる場合の様子に関しても、初臨のときと同じ現象が現れるようになるのである。すなわち、初臨のときに、神はメシヤが来られたという知らせを、祭司長や律法学者たちに与えられず、異邦の占星学者や純真な羊飼いたちに与えられたのであるが、これはあたかも、真の実子が無知であるために、やむを得ず、血統的なつながりをもたない義理の子に相談するというかたちとよく以ているといえよう。また、イエスの再臨に関する知らせも、因習的な信仰態度を固守している今日のキリスト教指導者たちよりは、むしろ平信徒たち、あるいは、彼らが異邦人として取り扱っている異教徒たち、そして、良心的に生きる未信者たちにまず啓示されるであろう。そして、初臨のときにイエスの福音を受け入れた人たちが、選民であったユダヤ教の指導者ではなく、賤民や異邦人であったように、イエスの再臨のときにも、選民であるキリスト教の指導者層よりも、むしろ平信徒、あるいは、非キリスト教徒たちが、まず彼のみ言を受け入れるようになるであろう。イエスが用意された婚宴に参席し得る人々が、前もって招待されていた客たちではなく、町の大通りで出会い、すぐに連れてこられる人々であるだろう、と嘆かれた理由は実にここにあったのである(マタイ二二・8〜10)。
 つぎに、再臨のときにおいても、初臨のときと同様、天国を望んで歩みだした道でありながら、かえって地獄に行くようになる、そのような信徒たちが大勢いることであろう。祭司長や律法学者たちは、神の選民を指導すべき使命を担っているのであるから、メシヤが来られたということをだれよりも先に知り、率先してその選民を、メシヤの前に導かねばならなかったはずである。イエスは、彼らがこの使命を完遂することを期待されたので、まず、神殿を訪ねて、だれよりも先に彼らに福音を伝えられたのであった。しかし、彼らが受け入れなかったので、やむなくガリラヤの海辺をさまよわれながら、漁夫をもって弟子とされたのであり、そしてまた、主に罪人や取税人、そして遊女らの卑しい人々と応接するようになったのであった。そしてついに、祭司長や律法学者たちが、イエスを殺害するまでにことが至ったのである。これによって彼らは、神に対する逆賊を処刑したものと信じ、余生を聖職のために奉仕し、経文を暗唱しながら、所得の十分の一を神にささげ、祭典を行って、天国の道へと進んでいったのである。しかし、結局彼らが肉体を脱いで行きついた所は、意外にも、地獄であったのである。不幸にも彼らが天国へ行くつもりで歩みだしたその道が、彼らを地獄へと陥れてしまったのである。
 このような現象が、終末においてもそのとおりに起こるということを知るにつけ、我々はだれしも、もう一度自分自身を深く反省せざるを得ないのである。今日の多くのキリスト教信徒たちは、各々、天国の道へと邁進している。しかし、一歩誤れば、その道は地獄へ通ずる道となりてしまうのである。それゆえに、イエスは、終末において、主のみ名をもって悪鬼を追いだし、あらゆる奇跡を行うほど信仰の篤い聖徒たちに向かって「不法を働く者どもよ、行ってしまえ」(マタイ七・23)と責めるであろうと言われたのである。このような事実を知るようになると、今日のような歴史の転換期に生きている信徒たちほど危険な立場に立たされている者たちはいないといえるのである。彼らがもし、イエス当時のユダヤ人の指導者たちと同じくその信仰の方向を誤れば、今日までいかに篤実な信仰生活をしてきたとしても、それらはみな水泡に帰してしまわざるを得ないのである。それゆえに、ダニエルは「賢い者は悟るでしょう」(ダニエル一二・10)と語ったのである。

第五節 言語混乱の原因とその統一の必然性

 人間が堕落しないで完成し、神をかしらに頂き、みながその肢体となって一つの体のような大家族の世界をつくったならば、この地球上で互いに通じあわない言語が生ずるはずはなかった。人間が、言語が異なるために、お互いに通じることができないようになったのは、結局、堕落により、神との縦的な関係が断ちきられるとともに、人間相互間の横的な関係もまた断ちきられてしまい、その結果、長い間、互いにかけ離れた地理的環境の中で、各々が別れ別れとなって相異なる民族を形成したためであった。また、最初は同一の言語を使っていたノアの子孫たちが、にわかに言語が通じなくなり、混乱を起こしたという聖書の記録があるが、そのいきさつは次のようなものであった。
 神の前で罪を犯したノアの次子ハムの子孫であるカナン族が、サタンの目的を遂げようとしてバべルの塔を高く築きあげた。ところが、天の側にいたセムとヤペテの種族たちも、この工事に協助していたため、彼らをして、互いに意思を通ずることができないようにし、サタンの仕事に協力できないようにさせるために、神は彼らの言語を混乱させてしまわれたのである(創一一・7)。
 一つの父母のもとにある同じ子孫として、同一の喜怒哀楽の感情をもっていながら、これを表現する言語が異なるために、互いに通じあうことができないということほど不幸なことはないであろう。それゆえに、再臨の主を父母として頂く、一つの大家族による理想世界がつくられるとするならば、当然言語は統一されなければならないのである。サタンの目的を高めようとしてつくられた。バベルの塔によって、言語が混乱状態に陥ったのであるから、今度は、蕩減復帰の原則に従って、神のみ旨を高めるための天の塔を中心として、あらゆる民族の言語が、一つに統一されなければならないのである。それでは、その言語はどの国の言葉で統一されるのであろうか。その問いに対する答えはあまりにも明白である。子供は父母の言葉を覚えるものである。人類の父母となられたイエスが韓国に再臨されることが事実であるならば、その方は間違いなく韓国語を使われるであろうから、韓国語はすなわち、祖国語(信仰の母国語)となるであろう。したがって、あらゆる民族はこの祖国語を使用せざるを得なくなるであろう。このようにして、すべての人類は、一つの言語を用いる一つの民族となって、一つの世界をつくりあげるようになるのである。